奥山 景布子著「葵の殘葉」を読み終える
2018年 02月 10日
奥山景布子(きょうこ)さんの最新作「葵の殘葉」を読み終える。
奥山さんの作品を読むのは初めてである。
「葵」と言えば、徳川家の三つ葉葵。
幕末から維新にかけて活躍した「高須四兄弟」の物語。
徳川御三家の筆頭、尾張中納言の尾張徳川家は、
徳川家康の九男、義直を祖とする。
尾張徳川藩2代藩主、光友の時に、美濃国高須藩を復活させ、
光友の次男、松平義行を高須藩主とした。
宗家が嗣子に恵まれない折には、高須松平家は輔弼の役目もあり
実際、高須藩からはたびたび養嗣子として、宗家に養子入り、
藩主となっている。
美濃高須藩の10代藩主、松平義建(よしたつ)は子沢山で、
10人の男子に恵まれていた。
因みに義建の正室、規姫は常陸水戸藩主、徳川斉昭の娘であり、
義建と一橋慶喜とは義兄弟の間柄。
義建の次男の徳川慶勝(よしかつ)、五男の徳川茂栄(もちはる)、
六男の松平容保(かたもり)、八男の松平定敬(さだあき)の
四人が「高須四兄弟」として世に知られている。
小説の序(プロローグ)は、明治11年(1878)9月3日、
兄弟4人が銀座二丁目にある二見朝隈写真館に集まり、
記念写真を撮る場面から始まる。
尾張徳川家の分家である美濃の高須の松平家から、
それぞれ、諸家に養子に入り、跡取りとなった兄弟四名、
尾張徳川家当主の徳川慶勝、一橋徳川家当主の徳川茂栄、
会津松平家当主の松平容保、
そして桑名久松松平家当主の松平定敬の面々である。
話は幕末に戻り、慶勝を中心とした物語が展開する。
長男が幼くして亡くなっているので、次男である慶勝が
本来高須藩の跡を継ぐのが自然の成り行きなのだが、
弟たちがそれぞれ他家に養子入り、本人はそのままに据え置かれる。
因みに高須藩を継いだのは、十男の義勇。
結局、慶勝は宗家の養嗣子となり、尾張徳川家の十四代藩主となる。
その後実弟が継ぐのだが、一橋徳川家に養子入りしたため、
再び藩主に、実子に継がせたところ、若くして急逝し、
またまた藩主に戻るという宿命を負わされる慶勝。
徳川家の中枢を担う身分でもあり、アメリカ、イギリス、フランス、
ロシアなどからの外圧と、尊王攘夷の動きに振り回される。
その一方で、尾張藩内では、二派にわかれた派閥抗争に
悩まされる。
藩内で勤王・佐幕の対立が生み出した血の粛清劇
「青松葉事件」はよく知られている。
慶勝は有能な人材を犠牲にしてしまい、後々まで後悔する。
慶勝は外国の事情にもかなり関心を持ち、
地図を入手して、海外事情もある程度熟知していた。
物差しを自ら手造りし、モノを測るのに使用していた。
特に興味を持ったのが写真鏡(現在のカメラ)、
自ら組み立てた写真鏡で、人物や風景の写真を撮っていた。
写真の現像も手掛けていた。
肖像写真の他に、名古屋城もいろいろな角度から撮影した。
西郷吉之助の肖像を写す機会があったのだが、
その場では辞退されて、撮れずじまい。
写真嫌いだったのか、吉之助の写真は現存せず。
実に残念である。
維新後、やっと落ち着いた四人が何年振りかで顔を合わせ、
記念写真を撮るところで、この小説は終わっている。
その時の写真である。
因みに、徳川慶勝は明治16年8月1日に死去、60歳。
一橋茂栄は明治17年3月6日に死去、54歳。
松平容保は明治26年12月5日に死去、59歳。
松平定敬は明治42年7月21日に死去、63歳。
なお徳川慶勝については、城山三郎が「冬の派閥」を書いている。
幕末の激動の時代を生き抜いた高須四兄弟、
史実を綿密に調べられ、素晴らしい作品に仕上げられている。
徳川家から見た幕末、大変興味深い。
近くに高須藩の屋敷跡があり、松平容保公生誕地の掲示も。
「葵の残葉」は、慶勝が主人公なので、興味深く読みました。
政局の動きは詳細に書かれていないので、読みやすいです。
コメントをいただき有難うございます。
新宿歴史博物館にて、「高須四兄弟展」があったのですね。
知りませんでした。
高須藩の江戸屋敷跡が新宿にあるのですか。
今度訪れてみようと思います。
情報を有難うございました。