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葉室 麟著「暁天の星」を読み終える

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葉室麟さんの著書「暁天の星」を読み終える。
今月、PHP社から出たばかりの単行本である。
1,700円+税。


ご存知葉室さんは、1年半前の平成29年(2017)12月23日に
逝去されている。 享年66歳だった。
この著書の巻末に葉室麟さんの長女、葉室涼子さんが
「刊行に寄せて」と題して書かれている。
平成29年4月末、「暁天の星」の第1回締め切りの前日だというに、
葉室麟さんは一行も書けずにいた。
実は精密検査の結果が出て、入院が決まった日だった。
病の事を伏せたまま、この作品を書き続け、
第6巻まで書き終えたところで、筆を折り、
11月中旬、病状悪化のため緊急入院した。


随って、遺作となった「暁天の星」は未完のままである。
PHP社から発行されている月刊誌「文蔵」の平成29年7月号から
12月号まで連載され、今回単行本として出版された。


物語の主人公は陸奥宗光で、
著者は陸奥宗光の後半生を描こうとしていた。
天保15年(1844)、紀州藩士・伊達宗広の第六子として、
宗光は和歌山城下で生まれた。
生まれた時の名前は伊達小次郎。
安政5年(1858)、小次郎は15歳で江戸に出て、
医者の下僕などをしながら勉学に励んだ。
のちに師と仰ぐ坂本龍馬と初めて顔を合わせたのは、
龍馬が小次郎の和歌山の父親を訪ねて来た時だった。
文久3年(1863)の出来事である。


龍馬が設立した海援隊に小次郎は加わるが、
仲間内では「嘘つき小次郎」と呼ばれ評判は良くなかった。
龍馬にも言われて、小次郎は名前を変え、陸奥陽之介と名乗る。
本名の伊達は東北に縁があるからと、東北の陸奥としたそうで、
陸奥宗光は東北とは縁もゆかりも全くない。
明治の代になると、新政府に出仕する。
兵庫県知事まで務め、廃藩置県とともに神奈川県知事となる。
外務・大蔵関連の要職にも就く。


ところが西郷隆盛が下野して後、薩長藩閥政府を批判して要職を辞任
した宗光は、政府転覆計画に連座したとして、
国事犯として5年の禁獄に処せられた。


その後、当時の首相、伊藤博文から目をかけられ、博文の勧めもあり、
ウイーン大学シュタインのもとに行き、国家学説を学ぶ。
明治5年(1872)、先妻連子に先立たれた宗光は、
旗本の妾腹の娘で新橋柏屋で売れっ子の芸者、小鈴を妻に娶った。
美人で頭の良い亮子である。

陸奥宗光は、重要事項を決断するとき、龍馬だったらどう考え
どうするか頭に思い描く。
一つのエピソードが述べられているのでご紹介すると、

陸奥が机に向って、熱心い本を読んでいるのを見て、妻の亮子が
何の本ですかと尋ねると、「万国公法」だと答える。
難しそうな本ですね、とさらに尋ねると、
「なにしろ、学問嫌いの坂本さんが愛読した書物だから」と答える。
「万国公法」は米国の国際法学者ホイートマンが書いた国際法の
解説書で漢語訳されたもの。
当時としては国際法の存在を伝える唯一の書物だった。

 
明治21年(1888)5月、駐米特命全権公使に任命され、
妻の亮子、娘の清子(すがこ)(16歳)を伴って、
米国ワシントンに赴いた。


帰国後、明治25年(1892)8月、外務大臣に就任。


泥沼に落ち込んだ日清戦争に、
米国が仲介をとり、明治8年(1895)3月下旬、
清国の全権・李鴻章と下関で講和条約の話し合いに
陸奥宗光が臨むところで物語は終わっている。
最後の文章は、
「陸奥は講和条約に臨んだ。 新たな闘いの始まりだった。」


残念ながら、この後どういう筋書きになるのかは分からないまま。
未完のままで終わり、不満がやや残るものの、
妻亮子との情愛も含めて、陸奥宗光の生き様が見事に描かれ、
読者に感動を与える著作だ。
久しぶりに葉室文学を堪能した。

この単行本には、特別収録として短編小説「乙女がゆく」が載っている。
「小説現代」(講談社発行)の2010年10月号に掲載されたもの。
坂本龍馬3歳年上の姉・乙女が高知から京都寺田屋に龍馬を訪ねてくる話だ。

また文芸評論家の細谷正充さんが詳細な解説を寄せている。


お薦めの一冊である。







# by toshi-watanabe | 2019-06-13 09:21 | 読書ノート | Comments(0)

特別展「円覚寺の至宝」を見学する


昨6月9日(日)、日本橋の三井記念美術館にて開催中の
特別展「(鎌倉禅林の美)円覚寺の至宝」を見学する。
この展示会は、6月23日まで開催されている。


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瑞鹿山円覚寺は弘安5年(1282)、鎌倉幕府第8代執権、
北条時宗により、中国から招聘した無学祖元(むがくそげん)を
開山として現在の鎌倉山ノ内に創建された。
鎌倉に「禅」の興隆基盤を築くと共に中国大陸との交流を通して
鎌倉独自の宗教・文化・芸術を創造する中心的な存在となった、
円覚寺とその一門の寺院に伝わる彫刻・絵画・書跡・工芸品などの
優れた作品が多数展示されている。
展示総数は、国宝・重文を含めて110点余り。

また大用(だいゆう)国師200年、釈宗演(しゃくそうえん)老師100年の
大遠諱(おんき)を記念しての開催でもある。

円覚寺の本尊、宝冠釈迦如来坐像。
宝冠をかぶり、装身具を身に着けた毘盧遮那仏である。
鎌倉時代の作、白雲庵に安置されている。


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国宝舎利殿内の舎利厨子の前には、
観音菩薩立像と地蔵菩薩立像が安置されている。
舎利殿は通常見学できないが、
もうだいぶ前に、1週間ほど円覚寺で過ごしたことがあり、
毎朝の座禅やお務めの生活、
その折に舎利殿を見学する機会があった。

国宝舎利殿。


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観音菩薩立像。
南北朝時代の作。


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地蔵菩薩立像。
南北朝時代の作。


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上記の2躯とともに元々、旧大平寺(廃寺)に安置されていたのが、
東慶寺の需要文化財観音菩薩立像。
鎌倉~南北朝時代の作。
当時の特徴である土紋により、着衣が立体的に見える。
東慶寺にて何度か拝観している。



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日本の禅宗は、鎌倉時代初め、栄西によって伝えられたとされているが、
初期の禅僧は密教僧でもあった。
中国南宋から純粋の禅を初めて伝えたのが、建長寺開山の蘭渓道隆であり、
その後を継いで、円覚寺を開いたのが無学祖元である。
頂相(ちんそう)(肖像画の事)画や頂相彫刻が残っている。


重要文化財蘭渓道隆坐像。
鎌倉時代の作、建長寺。


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重要文化財無学祖元坐像。
鎌倉時代の作、円覚寺。


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南宋時代の作品、重要文化財滝見観音菩薩遊戯坐像。
清雲寺に安置されている。


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韋駄天立像。
鎌倉時代の作、浄智寺。


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重要文化財伽蘭神像。


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高僧の頂相彫刻も。
重要文化財高峰顕日坐像。
鎌倉時代、正和4年(1315)、院恵作、正総院。


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重要文化財夢窓疎石座像。
南北朝時代の作、瑞泉寺。


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重要文化財地蔵菩薩坐像。
鎌倉時代の作、浄智寺。



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重要文化財銅造阿弥陀三尊像。
賀茂延時作、鎌倉時代、文永8年(1271)、円覚寺。


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展示作品の一部をご紹介まで。









# by toshi-watanabe | 2019-06-10 11:37 | 寺院・仏像 | Comments(0)

諸田 玲子著「旅は道づれーーきりきり舞い」を読み終える

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諸田玲子さんの著書「きりきり舞い」を読み終える。
サブタイトルに「旅は道づれ」。
光文社発行、1,600円+税。


「東海道中膝栗毛」で大当たりをとった戯作者、
十返舎一九とその家族の物語。
一九は大酒呑みの不摂生が祟って中風を患っていた。
素面だと無口で真面目なのに、酒が入ると
傍若無人で手がつけられない。
さらに酔っぱらえば陽気になって、やたら大盤振る舞い。
後妻のえつは、奇人の亭主一九の女房として、身の処し方を習得。
えつは、一九の四人目の女房だが、若くして亡くなった
三人目の女房の娘である舞を実の娘のように育ててきた。
舞は玉の輿で嫁入りすることを夢見ていたが、
一九の弟子で同居している今井尚武と祝言を上げることに。
一九は品川宿のはたごの女に産ませたとおぼしき男児、
丈吉を尚武・舞夫婦の養子にしてしまう。


さらに、葛飾北斎の娘で、出戻りのお栄が
どういう訳か一九の家に居候。
尤も父親の北斎も住所が定まらず。
お栄は大食いで、気ままかってに好きな絵を描いている。


江戸は本所亀沢町で住む6人に起きる諸々の面倒を
始末し、何とか奇人変人を纏めるのが舞の日常。
それに舞は踊りの師匠をして、家計を助けている。
「奇人、気まぐれ、きりきり舞い。。。。」は、
舞が唱えるおまじないだ。


舞には兄がいる。
市次郎と言い、幼いころに一九は彼を丁稚奉公に出した。
市次郎は真面目に奉公し、立派に成長、
一九の生まれ故郷、駿府・府中に愈々店を構えることになり、
一九夫妻・舞夫妻に路銀を送り、ぜひ来てほしいとの便りが届く。
一家総出で、お栄まで加わり、江戸から44里駿府への珍道中。
「東海道中膝栗毛」を地で行くような話も。


涙と笑いの人生をたどる旅路の楽しい物語である。










# by toshi-watanabe | 2019-06-06 09:51 | 読書ノート | Comments(0)

同期会が続く


先月末から今月にかけて、中学校と小学校の同期会が続いた。

5月26日(日)、中学校の同期会が開催され参加した。
会場は、ここ数年同じ店、日本橋の「ざくろ」、割烹料理の名店である。
料理もいいが、少々お値段が高い。
飲み物も居酒屋とは価格帯が異なる。
昨年より若干増えて、今回の参加者は15名。
新制中学の三期生で、同期卒業生は、5クラス280名ぐらいだったろう。
戦後間もなくの頃で、満州などからの引揚者もおられ、
引揚げのために1年間棒に振り転入、我々より1歳年上の方もいた。

皆さんお元気で、飲む量も進み、予算を2千円オーバーと相成った。
幹事さん、来年も同じ店に予約済みとのこと。

さて、6月2日(日)から3日(月)にかけて、小学校の同期会あり。
私の卒業した中学も高校もすでに廃校となったが、
小学校は健在である。
昭和5年9月に開校、来年は創立90周年を迎える。

当時二クラス80名ばかりの同期生がいた。
卒業してはや70年だ。
ここ10年ばかりは、この季節に熱海温泉に一泊して、
のんびりと同期会を開いている。
昨年と全く同じメンバーで今回も7名が参加。
何とか同期会が生き延びている。

未だ歩く元気があるので、途中小田原で下車して、
小田原城址公園を訪れる。


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「紫陽花・花菖蒲祭り」が始まっているものの、
まだ見頃には間がある。

咲き始めの花菖蒲。


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紫陽花も同様で、時期尚早。


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天守閣を仰ぎ見て、小田原城址公園を後にする。


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宿には3時に集合、温泉に浸かり、6時から7名だけの大宴会。
新鮮な海の幸に舌鼓、お酒もおいしく、
大いに旧交を温める。


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また1年後には同じ宿で落ち合うことになるのだろう。













# by toshi-watanabe | 2019-06-05 10:24 | 同期会 | Comments(0)

江の島にてOB会


5月28日から29日にかけて、
幹部社員のOB会があり、江の島へ出かける。
28日の午後、久しぶりに江の島を散策する計画だったのだが、
片瀬江ノ島駅を下車する頃には雨が降り出し、
江の島へ渡る橋というか道路というのか長い直線道路、
横殴りの雨と風が強烈に当たり、傘も差せない状況、
びしょぬれになりながらやっとの思いで宿に到着。


散策はあきらめ、宿の方も早めに部屋に案内してくれる。
宿は「岩本楼」、江戸時代から続く、由緒ある旅館だ。
1年ぶりに出逢う方たちがほとんどなので、
色々おしゃべりしたり、宿の名物「弁天洞窟風呂」に入ったり、
夕方までの時間をつぶす。
期待していた富士の霊峰は、生憎姿を見せてくれず。


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夜は恒例の大宴会。
コンパニオンも二人来ていただき、
男ばかり11名の相手をしてもらう。
当初の参加者は12名だったのだが、お一人がドタキャン。
に何回か人工透析に通われている方で、
元々参加に手を挙げたのが間違い。


翌日、明け方まで降っていた雨も上がり、晴天に。
飲み疲れもあり、江の島見物に手を上げる者居らず、
朝食後宿で解散となる。
晴れたものの富士山は結局見ることならず。


私は皆と別れ、長谷寺に立ち寄る。
観音様にお参りし、お堂の裏山にのぼり、
アジサイの花を見て回るものの、
未だ蕾が開き始めたばかり、見頃にはあと1週間ばかりか。



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イワタバコ等の花が咲いている。


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# by toshi-watanabe | 2019-06-01 09:02 | 季節 | Comments(4)

大相撲五月場所、幕を閉じる



令和に入って初めての大相撲五月場所(東京夏場所)が幕を閉じた。
昨日曜日は、年に一度の中学の同期会が日本橋の「ざくろ」であり、
宴会後帰宅したのが夕方5時過ぎ。
何とか最後の一番、鶴竜と豪栄道の取り組みからテレビ観戦。
安部首相とトランプ大統領の優勝杯授与も観ることが出来た。

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本場所は終盤、予想外の展開となり、
平幕の朝乃山(福井県出身、25歳)が初優勝を果たした。
千秋楽に敗れたのは残念だが、12勝3敗と見事な優勝。
同時に殊勲賞、敢闘賞も併せて受賞した。
総理大臣優勝杯を安部首相より受賞し、
今場所初めての米国大統領優勝杯を
トランプ大統領自ら手渡された。
この日の表彰式は、朝乃山にとって
一生忘れられない一コマとなった事だろう。
彼のライバルであり、仲良しの豊山は十両に落ち、
今場所も不甲斐ない成績で情けない。

敢闘賞は、阿炎と志摩ノ海も受賞し、竜電が技能賞受賞。
十両優勝の貴源治と幕下優勝の貴の富士は双子の兄弟。
兄弟力士は若貴のように何組かこれまであったのだが、
双子の力士というのは初めてだ。
因みに、この双子力士(栃木県小山市出身)の
母親はフィリッピン人である。
高安、御嶽海と、フィリッピン人女性を母親にもつ
力士が増えてきた。

幕内最軽量の炎鵬(168.0㎝、99.0㎏)は
前半大活躍だったが、後半は思うように相撲が取れず、
勝ち越しならず。

わが地元出身の友風(神奈川県川崎市出身)の成績も今一つ、
次の場所に期待したい。
友風は幼いころからピアノを習い、
一時は音楽学校への進学も考えたらしい。
現在も月に一度川崎の実家に帰り、母親の料理とともに、
ピアノを弾くのが楽しみだという。
演歌の上手なりきは数多いが、
ピアノを演奏する力士は珍しい。

来場所は、白鵬、貴景勝も復帰して土俵に上がり、
大いに盛り上がる事だろう。





# by toshi-watanabe | 2019-05-27 09:56 | 季節 | Comments(0)

戦後活躍された杉葉子さんの訃報

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新聞の片隅に、杉葉子さんの訃報が載っていた。
5月15日、結腸癌のために死亡、享年90歳だった。
戦後の昭和24年(1949)、
石坂洋次郎の小説「青い山脈」が映画化されて、
主演の先生を演じたのは香川京子、
そして女学生役の寺沢新子を演じたのが杉葉子。
無論モノクロ映画の時代である。
映画の中では、当時珍しい、さっそうと水着姿も。
因みに、「青い山脈」は何度も映画化されている。
新子の役も、雪村いづみだったり、吉永小百合だったり。


この映画で忘れられないのが、
「恋しい恋しい私の恋人」と書くべきラブレターを
「変しい変しい私の変人」と書かれていた場面で、
観客がゲラゲラ笑ったものだ。
主題歌もヒットし、その後も長い間、歌われてきた。
新宿の歌声喫茶でも、大いに歌われた。
戦後間もない暗い時代に、明るく溌溂とした映画で、
観る人の気持ちを明るくしてくれたのは確かだ。


その後、杉葉子さんは米国に渡り、
LAのリトル・トーキョーにある「ホテル・ニューオータニ」の
渉外マネージャーなどをされたこともある。
ご高齢になり、一昨年帰国された。


故人のご冥福を祈るばかりである。


合掌





# by toshi-watanabe | 2019-05-26 09:28 | 季節 | Comments(0)

保阪 正康著「続 昭和の怪物 七つの謎」を読む

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保阪正康さんの「続 昭和の怪物 七つの謎」を読む。
講談社現代新書、860円+税。
書名の通り、昨年出版された「昭和の怪物 七つの謎」の続編である。
昭和も後半、戦中戦後に登場した人物7人に光を当てている。
7人とは、三島由紀夫、近衛文麿、野村吉三郎、
田中角栄、伊藤昌也そして後藤田正治。

知られざる「昭和の真実」を求めて、
著者は各人物本人或いは由縁の人達と会い、話を聞き
その謎を明らかにしようとされた。
また保阪さんは、これまでの取材を通して知りえたことは、
確かに歴史の検証に必要な史実から、
指導者の人間的エピソードに至るまで数多いが、
それらを歴史書として現すのではなく、
人間学という枠内での書として刊行したいと
考えるようになった、と書かれている。
書かれている内容はまさにその通りだと思う。

一番印象に残ったのは、第7章の「後藤田正晴」についての記述だ。
後藤田正晴は大正3年(1914)徳島で生まれた。
東京帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格、
内務省にに入賞したのが昭和14年(1939)。
その後徴用され、昭和15年(1940)、台湾歩兵第二連隊に
二等兵で入隊した。
陸軍経理学校で学び、主計将校として、
台湾司令部に将校として身を置いた。
太平洋戦争中は、この司令部に在籍し、司令官に仕えていた。

戦後、国会議員となり、やがて中曽根康弘内閣では、官房長官についた
後藤田正晴は、この内閣の軍事への傾斜をたしなめる側にいて、
PKOへの自衛隊出動には一定の歯止めをっけていた。
彼独自の戦争観を持っていた。
戦争のあの愚劣さは、決して繰り返してはならない、
もう二度とあのような戦争はしたくない、との覚悟を固めていた、
と著者は書かれている。
自民党員の中で唯一の「護憲派」だった。

平成8年(1996)、政界を引退、83歳だった。
亡くなったのは、平成17年(2005)9月、享年91歳。

B-29爆撃機の爆撃、そして広島長崎での原爆投下により、
日本国民は嫌というほど戦争の恐ろしさを身をもって体験した。
それも終戦後70年以上たつと風化するのだろうか。
戦争を知らない若い国会議員が、
いとも簡単に「戦争」を口にする世の中に。
すでに時代は平成から令和に移ったが、
昭和がどんな時代だったのか、7人の人物を通じて知るのも、
(先の著書を含めると14人)いい機会ではと思います。








# by toshi-watanabe | 2019-05-20 09:41 | 読書ノート | Comments(0)

日々見たこと、 感じたこと、気づいたことをメモする


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