折々の記

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銀座へ出かける

初夏の陽気の昨日、銀座へ出かける。

実は先週末の土曜日、中学三期生の同期会が
京橋にある南湖料理の中華料理店「雪園」にてあり、
その帰りに銀座通りを散策したばかり。
その日はちょうど歩行者天国で、銀座通りは車道も歩けた。

ところで、昨日は、銀座松屋8階のイベントスクエアで
開催中の「マミフラワーデザイン展2017」を見学するのが目的。
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知り合いのKさんから招待券を2枚いただいて、
家内と一緒に出掛ける予定にしていたのだが、
家内の二番目の姉が急に胆石で苦しみ入院手術となったため、
その付き添いなどで病院通い、
とても出掛けられる状況ではないので、
展示会最終日の昨30日、1人で出かけた。

見学者はほとんどご婦人、入場するのも少々気後れする。
花をふんだんに使って、作者のイメージを具体化され、
デザインを工夫された作品が数多く展示されている。
「ピンク」、「イエロー」、「オフホワイト」、
そして「グリーン」とコーナーを色分けして展示されている。
ごく一部の作品。
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展示会見学後は、今年銀座にオープンしたばかりの、
評判の高いGSIX(銀座シックス)に立ち寄る。
銀座6丁目にあり、一部は以前銀座松坂屋があったところ。

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お店を見てもしょうがないので、屋上へ向かう。
屋上へのエレベーターに乗るのに行列ができているものの、
それほど待たされずに乗車できる。
広々とした屋上、樹木や草花が植えられ、緑も多く気分がいい。

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紫陽花の花も咲き始めている。
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銀座通りの向かい側はユニクロのビル。
窓際に並ぶマネキンさんたちはユニクロ製品を身にまとい、
ゆっくりと回っている。
面白い景色、下の通りからでは見えないのでは。

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360度見晴らしが可能で、東京スカイツリーと東京タワーが望める。
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下の銀座通りを眺める。
銀座4丁目の交差点から京橋方面。
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そして新橋方面。
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下りのエレベーターは6階止まり、
後はエスカレーターを使って下の階へ向かう。
各階にある店に寄って買い物をしてほしいという店の魂胆なのだろう。
中央部分は吹き抜けになっている。
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新しい東京銀座の名所となりそうである。




# by toshi-watanabe | 2017-05-31 09:56 | 季節 | Comments(8)
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最近、角川文庫の新刊として出版されたばかりの、

今井絵美子さんの著書「群青(ぐんじょう)のとき」を読む。

江戸幕末の時代に登場した、若き老中、阿部正弘が

主人公である。

幼名を剛蔵、また主計(かずえ)と呼ばれた

阿部正弘は文政2年(1819年)、備前福山藩の

5代藩主、阿部正精の五男として生まれた。

生母は側室の高野具美子(くみこ)である。

後に母は剃髪して、持名院を名乗る。

6代藩主を継いだ兄の正寧が病弱だったため、

天保7年(1836年)、正弘はわずか18歳で

福山十万石の第7代藩主に就く。

翌年初めて福山藩にお国入りする。

正弘がお国入りしたのはこの時だけだと言われている。

その後、奏者番、寺社奉行を経て、25歳で老中に就任、

その2年後には老中首座まで上り詰める。

現在でいえば総理大臣の職だろう。

多忙な業務に追われる中、心の安らぎを与えてくれるのが

実母の持名院で、物語では時折登場する。

さて、主計(正弘)が10歳の折、堀切菖蒲まで初の遠乗り、

雨が降り出し、雨宿りにと祠に行くと、瀕死の重傷を負った男を

手助けしている、主計と同じ年頃の少年に出会う。

闇丸という名の少年も手傷を負っており、屋敷に連れ帰り、

主計(正弘)は傷の手当てをさせて面倒を見る。

後に中山進之助と名乗るものの、闇丸として、正弘を陰から支える。

この闇丸は、唯一この物語に登場する架空の人物だが、

正弘という人物を浮き彫りにする間接的に重要な役割を果たす。

この小説に関しては、絶賛の言葉が寄せられている。

「まさに、今日に反映する困難に対峙した救国の英雄を

描ききった!」(森村誠一)

「血が沸いた!」(崔洋一)

「著者の腕は、間違いなく円熟の域に達しつつある。」(菊池仁)

「本格的な幕末小説として文学史に残る力作である。」(縄田一男)

時代小説評論の分野では確たる地位を占める縄田一男さんは、

あとがきに「解説」を書かれているが、その中で、

この作品を書かれる作者の動機の一端を紹介されている。

「これ(「群青のとき」)は長年温めてきた福山藩主阿部正弘の

生涯を描いた作品で、時代小説を書き始めた頃から、福山に生まれ

育ったわたしがこれを書かないでどうしようと思っていたのである。

 世間には阿部正弘がいかに欧米列強と対等に渡り合おうとしたか

あまり知られておらず、小説や映画、ドラマに描かれたとしても、

いつも脇役的な存在でしか描かれてこなかった。

 だが事実はそうではないのである。

 ペリーが来航した際、仮に阿部正弘が筆頭老中でなかったとすれば、

日本は欧米と対峙した末、属国になっていたかもしれないし、

もしかすると、現在のわが国の形がまた少し違っていたかもしれないのである。

 が、いかに言っても小説を書くには、阿部正弘は地味である。

 眉目秀麗、怜悧で実直な男というだけでは小説的な面白味に欠け、

読者は英雄的な破天荒な人物を好むものである。

 そこで私は架空の人物闇丸なる草の者を登場させ、

正弘の影武者的な役割を果たさせることにしたのである。」

物語のピークは、嘉永7年(1854年)、ペリーが再来、

日米和親条約を締結するに至る背景である。

これで250年間続いた鎖国政策に別れを告げた。

国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を

抑えるために、本心を隠して、意図的に協調路線を選択した。

世に名高い、徳富蘇峰の「近世日本国民史」には、

阿部正弘を、優柔不断、八方美人と評したりしている。

本著の中でも、

「正弘は、ぶらかしの伊勢、と陰口を叩かれていることを知っていた。

何事にも慎重になるがゆえ、白を白、黒を黒とはっきり言いきれないのである。

正弘は白にも桃色がかった白があろう、黒にも灰色がかった黒があろう、

といった具合に、あらゆる色を一旦我がうちに取り込んだ後、

熟高の末、再び吐き出す。

そこらあたりが、直情怪行型の斉昭とも、

また、生真面目一本であった水野忠邦とも違うところだった。」とある。

阿部正弘は「伊勢守」を賜っており、伊勢と世間では揶揄されていた。

斉昭とは、攘夷派のボスともいえる、
常陸水戸藩の第九代藩主徳川斉昭のことであり、
徳川第15代将軍、慶喜の実父である。

この物語には登場しないが、

正弘は徳川13代将軍家定の御台所に篤姫を推挙している。

彼は12代将軍家慶と次の家定から信頼されていた。

阿部正弘は安政4年(1857年)惜しまれつつ命を全うする。

享年39歳という若さ、今でいう肝臓がんが死因。

夜明け前の日本で難局に立ち向かい革新を行った男の熱き生涯だった。





# by toshi-watanabe | 2017-05-26 08:38 | 読書ノート | Comments(0)

上州赤城高原へ出かける

桐生の知り合いのお宅に出かける用事ができ、
ついでに近くの温泉で一泊することに。
わたらせ渓谷鉄道沿いも考えたのだが、乗り継ぎがうまく行かない。
赤城山の南麓、赤城高原の一軒宿、「山屋蒼月」に決める。

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5月19日(金)午前中に家を出る。
浅草の仲見世をぶらぶら歩き、昼食を済ませる。
人形焼きを買い求める。
テレビで報じられている通り、外国人観光客が目に付く。
丁度「三社祭」の時期のようだ。

午後1時ちょっと前の東武特急「りょうもう号」に乗車、赤城へ向かう。
午後3時、赤城の駅前に、宿の車が迎えに来てくれる。

落ち着いた雰囲気の宿、部屋ごとに意匠の異なる造りとなっている。
予約した部屋は、居間と寝室がいずれも広い和室で独立している。
その間に洗面所トイレが設けられ、庭に面したところにヒノキ風呂。
温泉風呂で、四六時中入る事が出来る。
もちろん大浴場、露天風呂もある。

広い敷地を有しており、庭を散策する。
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オオデマリの花。
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杜若(かきつばた)。
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ニッコウキスゲかキスゲの一種だろう。
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これから花開く芍薬(しゃくやく)の蕾。
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ジャーマンアイリス。
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空木(うつぎ)の花。
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蝮草(まむしぐさ)。
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都忘れ。
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破れ傘。
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山の幸と川の幸を主な素材に料理が供される。

夕食のメニュー。
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そして朝食のメニュー。
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すっかり温泉を楽しみ、山の珍味を賞味し、
のんびり過ごした宿だった。
朝は10時過ぎに、宿の車で赤城駅まで送っていただく。
赤城からはローカルの電車で西桐生へ向かう。





# by toshi-watanabe | 2017-05-22 09:50 | 旅行 | Comments(2)
(パートー1からの続き)

1週間滞在の予定が、義兄の突然の旅立ちにより、
3日滞在で群馬から帰宅する。

鈴蘭。
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日本桜草。
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名前の分からないブルーの花。
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マーガレット(?)。
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蝮草。
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ジャーマン・アイリス。
未だ蕾のまま。
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花蘇芳。
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花水木。
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花筏。
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半鐘蔓。
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花桃。
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名前の分からない気の白い花。
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吊り花。
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小手鞠。
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エゴノキ。
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藤の花。
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そして山菜、薇、蕨、タラの芽、独活。
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群馬の山里も、いよいよ初夏を迎える。





# by toshi-watanabe | 2017-05-17 10:34 | 草花 | Comments(2)
5月7日(日)早朝、横浜を出発しドライブしながら群馬の倉渕へ出掛ける。
我が家の近くから直ぐ東名高速道に入れるのは助かる。
海老名ICから圏央道を通れば、鶴ヶ島ICに抜けて、
高速道路一本で関越道に入れて早いのだが、
高速料金の節約にもなり、いつものように都内の環八を通るルートをとる。
日曜日の早朝は環八も割合い空いており、渋滞はほとんどない。

高坂SAにて休憩、簡単に朝食を済ませる。
高崎ICではなく、前橋ICで関越道を降りる。
途中榛名町のショッピングセンターにて買い物。
ほぼ予定通り、目的地に到着する。

7日、8日、9日と晴天に恵まれる。
9日の夕方、突然電話が入り、家内のすぐ上の兄(三番目の兄)が、
長岡の病院に緊急入院し、危篤状態になりそうだとのこと。
直ちに車で家内を近くの「安中榛名駅」まで送る。
家内はそこから高崎経由で新潟の長岡へ直行、
結局その晩10時過ぎ、義兄は息を引き取る。
家内は兄を看取る事が出来たのは不幸中の幸いだった。
翌10日の午後、家内は倉渕に戻ってくる。
10日は終日雨降り。

お通夜と葬儀の日取りが決まり、11日の早朝には倉渕を出発し、横浜帰宅。
当初14日(日)まで、群馬でのんびり過ごす予定だったのだが。

現地で咲いている草花を紹介したい。

都忘れ。

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苧環。
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白雪芥子。
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クリスマスローズ。
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碇草。
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紫蘭。
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白花紫蘭。
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立浪草。
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千代萩。
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芝桜。
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深山金鳳花。
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日本菫。
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翁草(花も終わり)。
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崑崙草。
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丹頂草。
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鷺苔。
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パートー2に続く。。。。。。。。





# by toshi-watanabe | 2017-05-16 15:31 | 草花 | Comments(0)
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内田康夫さんの著書「鬼首殺人事件」を読み終える。

今回は新装版として最近出版された光文社文庫で読むが、

〈浅見光彦×歴史ロマン〉の一冊。

「鬼首(おにこうべ)」とは少々恐ろしい言葉だが地名である。

宮城県大崎市鳴子町にあるのが鬼首、温泉地として知られるが、

本著に登場するのは、鳴子町ではなく、鬼首峠を越えた

秋田県湯沢市雄勝町である。

物語は、その雄勝町で開催される「小町まつり」の場面から始まる。

この祭りは200年以上続いているのではと言われる伝統的なイベント。

初めは、旧小野村で行われていた、小さな祭りだったのが、

昭和30年の町村合併で雄勝町(おがちまち)が成立して統合され、

間もなく、この町の最大級のイベントとして定着。

雄勝町はその後、秋田県湯沢市に統合された。

秋田県雄勝町の小野地区が小野小町生誕の地として知られる。

小野小町ゆかりの地は全国至る所にあるが、ここが最も有力視されている。

芍薬の花香る頃の6月の第2日曜日、祝詞奉仕に始まり、

巫女舞で神前を清め、小町の魂を慰める謡曲が歌われる。

さらに町内から選ばれた7人の小町娘が登場し、

小野小町が詠った和歌を朗詠し、小町堂に奉納する。

毎年、地元から未婚の秋田美人が7人選ばれる。

さて7人の小町の和歌朗詠が終わり、無事退場のシーンに。

その時、観衆の人垣の中から、老人が1人、ヨロヨロと歩き出た。

老人は、7人の小町の真ん中に、頭から突っ込むように倒れ込み、

悲鳴が起きる中、1人の小町娘の着物の裾をつかんだ格好で、倒れ伏した。

事件の発端である。

その後、老人の死因は毒服用によるものと判明。

偶々その場にいたのが、ご存知わが名探偵、浅見光彦である。

光彦は雑誌「旅と歴史」の依頼で、「小町まつり」の取材に来ていた。

警察では自殺として処理するのだが、光彦は直感的に殺人事件と推察する。

犯人の実像がなかなかつかめぬ状況が続く。

ところが、予想もしない大企業や大物政治家の名前が出てきて、

この事件の裏には大きな魔物が垣間見える。

東京の警察庁上部からの指示で、地元の捜査本部は解散する始末。

更には戦後史の闇が事件の背景にあるのか、謎が深まるばかり、

殺人事件の本筋がなかなか見えてこない。

次第に重苦しい推理小説となってくる。

事件現場となった秋田県雄勝町から秋ノ宮温泉郷を通って、

鬼首(おにこうべ)峠を越えると、上記にも書いた通り

宮城県の鳴子町に出る、国道108号線である。

この著書が書き下しで出版されたのが19934月、

当時は車で通るには難所の旧道だったのだが、1996年にバイパスが完成し、

「仙秋サンライン」として、今では秋の紅葉が名高い。

秋ノ宮温泉郷から少し離れたところにある一軒宿の

「稲住温泉」がこの小説にも登場する。

小説の中でも書かれているのだが、戦時中、武者小路実篤が

疎開した宿として知られている。

話が飛ぶが、宮城県石巻市にも雄勝町(おがつちょう)と同名だが、

読み方の異なる町がある。

東日本大震災では巨大津波により大きな被害を受けている。

この町は「雄勝石」が有名であるが、

「雄勝硯」はよく知られ、また天然スレートとして、

東京駅丸の内駅舎の屋根に使われているのもつとに知られる。

浅見光彦シリーズ、一気に読んでしまう一冊である。

因みに、終戦後父親の仕事の関係で、内田康夫さんは、

疎開先の長野の戸隠村から東京にすぐには戻らず、秋田に転居され、

この雄勝町(当時は秋ノ宮村)にて中学の3年間を

過ごされたそうである。




# by toshi-watanabe | 2017-05-06 14:23 | 読書ノート | Comments(0)
先月の話だが、年に一度開催の会社のOB会があり、
4月の26日に伊豆畑毛温泉へ出かける。
宿泊したのは、「大仙家」という由緒ある宿である。
畑毛温泉は東海道線の函南駅近くにあり、
江戸時代から続く湯治場として知られる。
35度前後の源泉、ぬる湯でゆっくりつかるのがイイらしい。
温泉につかりながら読めるようにと書物も更衣室に用意されている。
夜は大宴会である。

さて翌日の27日、近くに住む従妹の家を訪れ、
久し振りに旧交を温める。
昼食を共にした後、1人で伊豆長岡方面に足を延ばし、
「願成就院」を訪れる、これで三度目になる。
何といっても、鎌倉時代の仏師、運慶の造像した仏像が5躯、
安置されており、参拝するのがメインの目的。
前回訪れた折には、重要文化財だったのが、
その後国宝に指定された。
しかも前回の時には、ご本尊の阿弥陀如来坐像と毘沙門天立像は
拝観できたものの、不動明王立像と二童子像が
丁度東京の国立博物館に出張中で拝観できなかった。
今回は5躯とも無事拝顔する事が出来た。
他に参拝客はおらず、静かなお堂の中でしばらく一人佇んでいた。

今回訪れた前後ではないかと思われるが、つい最近、
願成就院さんがウェブサイトを開設された。
素晴らしい内容で、国宝の仏像の写真も本物そのままにみられる。
ぜひとも見ていただきたい。
上記の仏像については、ウエブサイトに詳しく、
また前回訪れた時のブログにも記載している。

本堂の裏側の山の傾斜地域に安置された五百羅漢像を見学する。
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寺院の案内をそのまま転記する。

「人世はいろいろ」
皆様お一人お一人の尊い人生の様々な思い出や願い、そして生き様、
また亡くなった大切な方への報恩感謝のお気持ちなどを、
ご自身も参加して石造に刻み込む今様五百羅漢づくりに挑戦してみませんか。
地元の石工さんが指導、お手伝いをさせていただきます。
道具は用意してあります。
境内にはこれまでに完成した170体の羅漢像がお出迎えです。
一度ご参詣になりご覧になって下さい。

一体は180,000円(石材、指導料、安置、供養料などすべてを含む)。

寺院を後にする頃には、雨がぽつぽつと降り始める。
伊豆長岡駅へ急ぐ。


  




# by toshi-watanabe | 2017-05-06 11:02 | 寺院・仏像 | Comments(0)

洗足池を散策する

昨5月2日、蒲田まで出かける。
蒲田駅を降りるのももう何十年ぶりかである。
耳鼻科の紹介で、使用させていただいた補聴器、
遂に買い求めることで、蒲田の補聴器店にお邪魔する。
かなりの額の散財になるが、致し方なし。
初めて知ったのだが、補聴器は非課税、消費税がかからない。

陽気もよく、帰途の途中、池上線の「洗足池」で下車する。
改札を出たところ、中原街道が通っている。
その街道を渡ると、目の前に洗足池が広がる。
何度か電車の窓から眺めていたのだが、洗足池のまわりを歩くのは初めて。

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古くは千束郷大池と呼ばれていたが、
1282年(弘安5年)、日蓮上人が身延山から常陸の温泉に向かう途中、
この池で足を洗ったという伝説から洗足池と言われるようになった。

池の西側を時計回りに進み、小さな橋を渡ると、
朱塗りの鳥居があり、向かい側の石段の上には千束八幡神社。
すぐ横には名馬池月の像が見える。
源頼朝の前に突然現れた名馬は「池に映る月影のようである」
として池月と呼ばれ、頼朝の馬となる。
八幡神社は「旗揚げ神社」ともいわれる。
頼朝ゆかりの地でもある。

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船の浮かぶ池を眺めながらしばらく行くと、
水辺に黄色い河骨(こうほね)の花が咲いている。

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池の東、大田区立大森第六中学校があるが、
その地に、勝海舟の別邸、洗足軒がかってあった。
1868年(慶応4年)3月、江戸城明け渡しと15代将軍徳川慶喜の
処分について、三田の薩摩藩蔵屋敷で西郷隆盛と
会見したのちも、勝海舟は東征軍の本営池上本門寺を再三訪ねた。
その途中、西郷と共に洗足池の風光を愛でたことが縁となって、
この地に藁葺きの別邸を構えた。
死後、遺言によって池畔に勝海舟夫妻の墓がつくられた。
夫婦の墓の隣には、西郷隆盛の留魂碑と詩碑が並んでいる。


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日蓮上人ゆかりの松の木と銅像が立っている。
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洗足池の近くには、日蓮宗総本山の池上本門寺がある。
東京では数少ない五重塔が本門寺の境内に立ち、
重要文化財に指定されている。

穏やかな日和で、洗足池のまわりをのんびりと一周する。











# by toshi-watanabe | 2017-05-03 11:13 | 季節 | Comments(0)