2005年4月にスタートして以来、ブログ「折々の記」が
昨日、アクセス数20万回を達成しました。
皆様のご支援に感謝申し上げます。





これからも続けてまいります。
何卒よろしくお願い申し上げます。





by toshi-watanabe | 2017-11-30 08:49 | 一般 | Comments(0)




今年最後を締めくくる大相撲11月場所(九州場所)が
11月26日、幕を閉じた。
無事にとはいかない場所だった。
千秋楽の昨日、八角理事長の土俵上からお詫びのスピーチが
あったものの、まさに日本相撲協会の対応のまずさ、遅さを
さらけ出すだけで、むなしい限りだったのは残念。
横綱日馬富士も、今場所には出ずに謹慎すべきだった。

しかも今場所、3横綱1大関をはじめ9名の力士が休場した。
4横綱2大関がいるのに、結局横綱同士、大関同士の取り組みは
一度もなかった。 千秋楽に横綱と大関の一番が
あっただけとは全くファンを馬鹿にしている。
それでも相撲ファンとは有難いもの。
15日間満員御礼が続き、これで今年は、6場所90日間、満員が続いた。
これは21年ぶりのことだという。

会場入場者と会員によるアンケート調査「敢闘精神あふれた力士」が、
今場所も実施され、結果が発表された。
毎日1位から3位まで3名の力士が選ばれる。
1位を3回受けたのが、安美錦と北海富士、2回受けたのが
貴景勝、遠藤、嘉風、そして1回受けたのが阿武咲、松鳳山、豪栄道。
1位、2位、3位の合計回数では、7回の北海富士がトップ。
次いで、6回の貴景勝と遠藤、5回の阿武咲と安美錦、
4回の嘉風、3回の稀勢の里と続く。
白鵬は1回もなし。

白鵬は14勝1敗で、見事40回目という圧倒的な回数の優勝を果たした。
とはいえ、最近の相撲は、立ち合いと同時に張り手かかちあげで、
相手の動きをひるませて有利に進めるやり方が専らで、
横綱相撲というより、勝の相撲に徹しているように感じる。
11日目の対嘉風戦、行司判定に不満を示した態度は
力士としてあるまじきものだろう。
千秋楽の優勝表彰式での態度も疑問。
勝手に力士代表の弁を語り、万歳三唱とは。

さて39歳で再入幕を果たした安美錦、前半は巧みな技で白星を
重ねたものの、中盤からはスタミナ切れか負けが込み、
千秋楽に何とか勝ち越しを決めて、敢闘賞を受賞した。
インタビューでは涙が止まらないままだった。
奥様と3人のお子さんのために頑張ったと、ご本人の弁も感動的。

横綱大関陣が休場する中、若手力士が頑張った。
御嶽海は、今年の6場所すべてで勝ち越しを決めた、唯一の力士。
21歳の貴景勝が幕内筆頭という難しい番付でも、
11勝を挙げ、見事殊勲賞を受賞。
北海富士が技能賞を受賞した。
若手ではないが、隠岐の海が敢闘賞を受賞した。
その一方では、幕内筆頭の玉鷲が11勝を挙げながら、
賞の話が全くなく、ご本人はおやっと思ったらしい。

横綱審議会も開かれたが、結論は先延ばし。
日馬富士の暴行事件、早急に解決してほしい。
相撲ファンが逃げてしまう。





by toshi-watanabe | 2017-11-28 09:38 | 一般 | Comments(0)

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葉室麟さんの新作「大獄 - 西郷晴嵐賦」を読み終える。

文芸春秋発行、1,700円+税。

来年は明治維新から150年、NHKの大河ドラマは

「西郷(せご)どん」、林真理子の原作が脚本化され、

西郷隆盛を主人公に放映される。

この原作の他にも、数多くの西郷隆盛を取り上げた

著書が現在書店に並んでいる。

葉室さんの作品も、西郷隆盛の物語だが、

西郷吉之助として登場する。

時は弘化3年(1846)、薩摩藩世子の島津斉彬が江戸より帰国。

斉彬は38歳、父の藩主斉興は未だ家督を譲らず。

藩士の大久保利世の問いに応えて斉彬は答える。

「世が使うのは、仁勇の者だ」

「百才あって一誠なし、不仁であるがゆえにひとの心を得られぬ。

 それゆえ、どれだけ働こうとも、ひとの恨みを残すだけだろう。

 世の中をまことに動かすのは、仁を行う勇を持った者であろう。」

利世には、この言葉に似つかわしい若者の顔が脳裏に浮かんだ。

その若者こそ、西郷吉之助である。

薩摩藩では子弟の教育は居住地ごとの郷中(ごじゅう)で行う。

青少年の先輩が後輩を指導する体制で、

指導に当たるのが二才頭(にさいがしら)である。

丁度20歳になったばかりの吉之助は二才頭を務め、

同時に郡方書役として出仕していた。

嘉永4年(1851)に島津斉興は隠居の身となり、

斉彬がいよいよ薩摩藩主の座に就く。

吉之助の器量を見抜いた斉彬は、嘉永7年(安政元年)(1854)、

参勤交代の折りに、吉之助を伴う。

江戸の藩邸では、お庭方を拝命。

卑職だが、主君と直接、言葉を交わす事が出来る。

このため幕府でのお庭番は将軍の密命を受ける

隠密の役目を果たしていた。

水戸藩へ使いを命じられた吉之助は藤田東湖や

戸田蓬軒と面識を得る。

その後、多くの名士と知己を得る。

水戸藩の武田耕雲斎、安島帯刀、越前福井藩の橋本佐内、中根雪江、

肥後の長岡監物、長州の益田弾正、土浦の大久保要、尾張の田宮如雲等々。

安政5年(1858)、彦根藩主・井伊直弼なおすけ)が大老に就任する。

その陰には紀州の付家老・水野忠央(ただなか)の画策がある。

徳川幕府12代将軍・家慶が亡くなった後を継いだ13代将軍・家定は

家慶の四男だったが病弱な体質、先が危ぶまれ、水野忠央は血筋の最も近い

紀州藩主・慶福(よしとみ)を将軍継嗣に押していた。
後の14代将軍・家茂、その時まだ12歳。

所謂“南紀派”である。

井伊大老は家臣の長野主膳を京へ派遣して、

慶福将軍実現のための活動を開始する。

その一方で、当時の世情から見て、一橋慶喜が次期将軍に

最もふさわしいと考える、水戸斉昭を中心とする一派、

所謂“一橋派”があり、越前の松平春嶽などとともに、

島津斉彬も水戸斉昭を支持していた。

近衛家の娘として将軍家定の元に薩摩から嫁いでいた篤姫を通じて、

吉之助は藩主の意向に沿った工作をしていたのだが、

家定は篤姫と話をしようとせず、母親である本寿院、幼い頃に教育係だった

歌橋、いずれも南紀派の婦人たちに言われるまま、次期将軍には、

紀州の慶福と宣言し、一橋派の敗北となった。

この結果、「安政の大獄」が厳しく行われることに。
一橋派の主だった人たちが処罰やひどい仕打ちを受けた。

書名の「大獄」とはまさに、この「安政の大獄」。

因みに、1963年に放映されたNHK大河ドラマの第一作、

「花の生涯」は井伊大老の生涯を描いた作品だった。

折りしも斉彬は薩摩軍を率いて江戸に向かおうとしていたのだが、

病で突然亡くなり、薩摩藩主は斉彬の異母弟の息子、茂久が継ぐ。

実際には、茂久の父親、島津久光が実力者として

薩摩藩を引っ張ってゆくことに。

西郷吉之助は京で斉彬の訃報を耳にして殉死をと考えるのだが、

京において公家との間の交渉役をしていた、尊王攘夷派の

僧侶・月照らに思いとどまるように言われ、斉彬の遺志を継ぐ決意をする。

「安政の大獄」のあおりを受けて、吉之助は藩の計らいで、

菊池源吾と名前を変えて、奄美大島に潜居する。

所謂島流しとは異なり、島では普通の生活をする。

3年後藩の許しが出て吉之助は島から薩摩へ帰るところで、
この作品は終えている。

包容力のある西郷吉之助が見事に描かれた作品である。

周りの人たちに安心感を与えずにはおかない、

如何にも大人物というイメージが目に浮かぶ。

吉之助にとって子供の頃からの友達というか仲間の中でも、

特に仲のよかった3歳年下の大久保一蔵(のちの利通)が登場する。

大久保利世の息子、一蔵は吉之助を尊敬し、兄のように慕っていたのだが、

心の中では、いつかは吉之助を飛び越えようと考えていた。

吉之助が奄美大島に流されていた間、新たな薩摩藩の実力者

となった島津久光に接近し、吉之助と斉彬との間にあったような

関係を自分も持とうとし、実現に向かって活動する。

ただ、吉之助はそのあたりのことをすでに感知していた。

吉之助と斉彬との間には、同じ考えを持った信頼関係があったのに対して、

一蔵と久光の間には信頼関係が全くなく、

お互いの力をただ利用し合う、打算的な関係であると見抜いていた。
明治に入り、西郷と大久保は敵対する関係になるのだが、
すでにその前兆が出ていた。


西郷隆盛を扱った小説は数多く出ているが、

葉室麟さんの「大獄」は西郷隆盛という人物を見事に描いた
実に素晴らしい作品である。

葉室ファンとして、大いに感動を与えていただいた。











by toshi-watanabe | 2017-11-28 09:11 | 読書ノート | Comments(0)

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浮穴みみさんの新作「鳳凰(ほうおう)の船」を読み終える。

双葉社発行、1,500円+税。

因みに浮穴みみさんは北海道旭川生まれで現在は札幌在住。

江戸から明治へ、時代の狭間に函館で生きた人たちの

逡巡と悔悟、そして決意の物語が散りばめられている。

書名となっている「鳳凰の船」の他に4篇の物語、

「川の残映(なごり)」、「野火」、「函館札(はこだてさつ)」

そして「彷徨(さまよ)える砦」から成る。

それぞれ独立した形をとっているが、

時代の流れとともにつながりもある。

「鳳凰の船」に登場するのは、

函館に手様式帆船づくりの名匠と謳われた船大工の続豊治。

だがある不運から、船大工の職を離れ、仏壇師として、

また慰めに木彫りをしたりして20余年余りが過ぎる。

世は明治へと移り変わり、ひっそりと暮らす豊治の元を

伊豆の船匠、上田寅吉が訪ねてくる。

嘉永七年、下田沖に停泊中のロシア軍艦ディアナ号が

大津波により沈没、幕府経由で依頼された新船製造に

尽力したのが、伊豆戸田村の船大工だった寅吉。

様式帆船ヘダ号を手掛けたのが寅吉、

この様式は君沢型スクーネルと呼ばれ、寅吉の名は広く知られた。

実は、榎本釜次郎率いる脱走軍の旗艦開陽丸に乗船して、

函館に来たのだが、その開陽丸が江刺港で暴風雨にあって座礁沈没。

「川の残映」に登場するのは、お雇い外国人のジョン・ミルンと

結婚した堀川とね、本願寺派函館別院、願乗寺の娘。

明治の半ばに英国へ渡ってから二十五年、

七年前にミルンが亡くなり、とねは大正9年、

ふるさとの函館に一人帰ってきた。

実家の前の川はすでになくなっている。

に乗ったとねが招魂坂に近づくと目の前にお屋敷、

それは30年前には築島にあった旧ブラキストン邸が移築されたもの。

当時のことをとねは思いだす。

アメリカから招聘されたお雇い外国人のエドウィン・ダンそして、

ダンと結婚した鶴のことなど。

「野火」に登場するのは、福士五郎成豊で、北海道庁

初代長官・岩村通俊に仕える。

福士は「鳳凰の船」に登場した船大工豊治の実の息子、

幼い時に養子に出され、姓が異なる。

福士は、「川の残映」に登場する、イギリス商人、

トマス・ブラキストンと親しくしていた頃、

英語はもちろん、鳥類学から気象観測術や

測量術まで手ほどきを受けていた。

開拓使として測量業務に従事し北海道を調べ上げた。

岩村長官は福士の手腕を大いに評価する。

福士は、野火になり、燃えて駆け巡り、炎の命を

土壌へ授けるのだと決意する。

「函館札」の主人公は、キャプテン・ブラキストン。

独身を貫き通しいたイギリス人商人、ブラキストンと

屋敷で下働きをする、おそのと若いれんの物語。

「彷徨える砦」には函館港改良工事を指揮する廣井勇が登場。

大型船が停泊できるように函館港の改築に取り組む。

ところが、弁天台場の解体工事が予想外の難作業。

幕末安政の時代、陸上の五稜郭とともに、七年の歳月を

費やして築かれたのが弁天台場、海上防備の要。

台場の設計から監督までを、一手に引き受けたのは、

幕臣・武田斐三郎、蘭学者で砲術家、当時一流の科学技術者だった。

難工事の最中、クリスチャンでもある廣井は若い頃世話になった、

フランス人貿易商ピエールと妻の志津を訪ねる。

函館に住む夫妻は近いうちに日本を離れるという。

ピエールは弁天台場を築くにはフランスも支援したものであり、

貴重な遺産として、破壊すべきではないと主張するのだが、

廣井は解体工事を進めざるを得ない。

弁天台場は跡形もなく消え去るが、弁天台場に使われていた

石垣は防波堤の一部に生まれ変わる。

素晴らしい筆者の筆致で、読むものをぐいぐい引き込んで行く、

感動の作品である。

文芸評論家の縄田一男氏も絶賛している。



by toshi-watanabe | 2017-11-24 08:33 | 読書ノート | Comments(0)


11月11日(土)~12日)日)の2日間、
横浜市青葉区の山内地区センターにおいて、「センターまつり」が開催される。
作品展として、絵画、書道、短歌、俳句、手工芸、絵手紙、書道、写真等々、
素晴らしい作品が出展される。
発表会としては、日ごろの練習を積まれた合唱、合奏、民謡、ダンスなどが演じられる。
さらにバザー、飲食コーナー、お茶席、お香席なども設けらる。
家内が参加している人形の会でも、作品を出展。

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出品作品を紹介したい。
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以上、ご紹介まで








by toshi-watanabe | 2017-11-20 11:12 | 一般 | Comments(4)

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お馴染み「髪ゆい猫字屋繁盛記」シリーズの最終巻
となった「残りの秋」を読み終える。
角川文庫、600円+税。

2015年にステージ4の乳がんを宣告された今井さん、
その後療養しながら執筆をつづけられていたが、
本年10月8日、病院で息を引き取られた。
享年72歳。
この場を借りてご冥福を祈るばかりである。
合掌

この作品は書き下しで今井さん最後の著作となった。
日本橋北内神田の照降町にある髪結床猫字屋がメインの舞台である。
そこには仕舞屋の住人や裏店に住む町人たちが日々集う。
江戸の長屋に息づく情景が見事に描かれている。
猫字屋を取り仕切っているのが女主のおたみ。
倅の佐吉は、廻り髪結いをしながら、お上から十手を預かる身。
自分の娘として育てたおよしとおけいもいる。

およしが嫁入りしたのが、紅師として身を立て独立、
坂本町に紅藤という見世を出している藤吉。
1人男児に恵まれ、二番目の子供が腹の中に。
ところが突然、大金を手に藤吉がどことも知れず出かけたまま。
結局、藤吉が幼い頃に生き別れとなっていた母親が
見つかり、その面倒を見るためだったとわかる。
母の最期を看取り、遺骨を手に、いざ帰ろうとした
藤吉のところに、見世の使いが急いで駆けつける。
およしはお産がうまく行かず大変な事態になっていると知らされる。
産婆では手に負えず、医者を呼んだと言われる。

猫字屋の面々や普段付き合いのある人たちが、
何かと手助けし、困ったことがあれば親身になって面倒を見る、
人情味溢れた話が盛りだくさん。
おたみをはじめ、登場する人物が交わす、
気風のいい江戸言葉がたまらなくいい。
初代水谷八重子演じる新派の舞台を見ているようだ。

とにかくほろっとさせられる、感動の一編である。






by toshi-watanabe | 2017-11-20 08:54 | 読書ノート | Comments(2)

中学時代の恩師が旅立つ



中学時代の恩師、H先生が11月5日に亡くなり、
昨夕、肌寒い秋雨降る中を、お通夜に参列する。
葬儀は五反田の桐ケ谷斎場で営まれ、
目黒線の不動前駅から歩く。

奥様の話では、自宅療養され、1人では動けない状態でしたが、
亡くなる前夜、奥様と話を交わされ、お茶を飲んでおいしいと、
言われたりされていたそうです。
そのままお休みになり、翌朝、一杯の水を飲まれ、
再び眠りにつき、夜11時、そのまま息を引き取られたとか。
全く苦しまずに旅立たれ、大往生と言えるのかも。
享年88歳だった。

我々は新制中学の第3期生、校舎もまだ未完成で、
入学当時は一クラス80名という大所帯。
とても勉強するなどという環境ではなかった。
教師も足らなかったようで、
中学2年のときに担任となられたH先生は、
昼間授業を担当され、夜は大学に通っておられた、
教師見習いでした。
我々が卒業後に、正式に教員になられたのではないだろうか。

それで我々と年齢差も7〜8歳、
先生というより兄貴といった存在だった。
同期会にも3年前までは毎回お出で頂き、
若作りのH先生と生徒のOBとでは、どっちが年上かわからないほど。

一年上のTさんが、我が家のすぐ近くにお住まいで、
時折り、一升瓶を下げて、一緒に旗の台にあるH先生のお宅に
お邪魔したのも、懐かしい思い出である。
また同級生の一人が白樺湖畔のホテルの総支配人をされていたころ、
ご一緒に信州の白樺湖へ出かけたこともある。

ご遺族の方々に弔意を表し、
故人のご冥福を衷心よりお祈りするばかりである。

合掌




by toshi-watanabe | 2017-11-15 09:37 | 一般 | Comments(0)

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祥伝社文庫の一冊として最近発行された(700円+税)、

内田康夫さんの著書「喪(うしな)われた道」を読み終える。

本作品は、平成310月に初出版されて以来、

祥伝社の他に、角川文庫、光文社文庫などより何度か刊行されている。

作者にとっては、66作目の長編小説。

実はこの作品、以前から一度読みたいと思っていた。

というのは、西伊豆の土肥が登場するからである。

戦中戦後の数年間過ごした疎開先が土肥であることは、

何度か日記にも書き込んでいる。

いじめの体験も忘れられないが、懐かしい第二の故郷だ。

ご存知素人探偵、浅見光彦シリーズの一作で、

青梅市梅郷の山中で、虚無僧姿の遺体が発見される

所から物語はスタートする。

遺体は羽田栄三で、当初は事故死ではと見られていたが、

殺人事件に進展する。

栄三の孫娘、20歳の記子がマドンナ役で登場、

しばしば光彦と行動を共にする。

事件の核心がなかなか見えないのだが、

戦後、羽田栄三が勤務していた土肥金山関連の精錬工場が絡んでくる。

土肥金山は江戸時代(慶長年代)、大久保石見守長安が

幕府金山奉行として土肥金山に乗り込み、新技術を導入して

大きく発展させた。

これを第1期とすると、第2期が明治から昭和にかけてで、

土肥金山は、佐渡金山に次ぐ日本第2位の金産出量を誇った。

所が昭和38年(1963)鉱量枯渇のため操業を中止し、

昭和40年(1965)閉山となった。

その7年後、跡地を新たな「土肥金山テーマパーク」に、

観光設備として一般公開されるようになった。

現在は多くの観光客が訪れている。

幼い頃の記憶が定かでないが、土肥温泉として、観光客が来る

様になったのは、鉱山が閉鎖された後だと思う。

私が疎開していたころは、とても観光地という雰囲気ではなかった。

殺害された羽田栄三は尺八の名手で、退職後も尺八同好会のメンバー、

時折り仲間が集まって虚無僧姿に着かえて尺八を楽しんでいた。

彼が殺害された、同じ日に修善寺付近でも虚無僧姿が見られており、

場面は一挙に修善寺の方に。

偶々事件に巻き込まれた光彦探偵は愛車のソアラを駆って修善寺へ出かける。

土肥へも足を延ばし、宿泊するのが土肥温泉「玉樟園新井」。

よく知っている老舗旅館である。

この旅館は本因坊戦や棋聖戦などの開催でも知られる。

作者の内田康夫さんはこの宿に何度か宿泊され、宿の女将とも懇意にされ、

囲碁戦の観戦記も書かれている。

内田さんは囲碁でも将棋でもかなりの腕前とか。

尺八を持った虚無僧の姿が目撃されたのは、修善寺の町はずれ、

そこには最近観光名所となっている旭滝への道、

その手前には功徳山滝源寺跡地があるが、

この寺はかって禅宗の一派である普化宗の寺院だった。

そして旭滝にちなんで作られたのが、尺八の名曲「滝落之曲」。

因みにユーチューブで、この曲を聴く事が出来る。

作品の「エピローグ」には、旭滝の前に関係者が立ち、尺八により

「滝落之曲」が演じられる場面が出てくる。

虚無僧というのは、普化宗の僧が天蓋を被り、尺八を吹き

喜捨を請いながら諸国を行脚修行したのが始まりだと、初めて知る。

明治維新後、太政官布告により普化宗は廃止された。

作品の中の事件に関連して、「伊豆大島近海地震」というのが出てくるが、

この大地震が発生した昭和53年(1978)は米国駐在中、全く記憶にない。

114日、伊豆大島西岸沖を震源地とし、マグにチュード7.0の

直下地震で、伊豆半島にも大きな災害をもたらした。

湯ヶ島にあった工場から猛毒のシラン化ナトリウム(青酸ソーダ)が

狩野川に流出し、駿河湾へ流れ込み、魚介類に多大な被害を

もたらした事実を初めて知った。

新たに金山の坑道付近で起きる殺人事件も含め、

殺人事件の犯人は割り出されるものの逮捕に至らず。

閉山に伴う埋蔵金の話が大きなテーマになるのだが、

光彦探偵の推理で物語は幕を閉じる。

馴染みのある修善寺や土肥が出てきて、興味深く一気に読んでしまった。

終盤、何となく物足りない所もあったが、こういう終わり方もあるのだろう。



by toshi-watanabe | 2017-11-15 09:05 | 読書ノート | Comments(0)

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堺屋太一さんの作品「三人の二代目」を読み終える。

20115月に単行本として講談社から刊行されているが、

最近、文庫本(上下2冊)として出版された。

講談社α文庫(上下各900円+税)。

三人の二代目とは、織田信長から豊臣秀吉へと移り変わる

激動の戦国時代、二代目として登場した三人の武将。

1人は、上杉謙信を継いだ上杉景勝、

2人目は、毛利元就を継いだ毛利輝元、

そして3人目は宇喜多直家を継いだ宇喜多秀家である。

戦国の乱世に、偉大な先代の跡を継いで家長となった

三人の二代目の苦労とその失敗の本質を深く抉った物語だ。

登場人物の多様さ、舞台の広さ、そして情報、策略、戦闘と

続く対象の豊富さにおいて、歴史小説の会心作であると同時に、

現代社会に通じる内容となっている。

堺屋太一流に三人の生き様を見事に捉えている。

読んでいるうちに、現代社会での初代創業者と2代目社長の

違いが見えてくるような気がする。

天正6年(1578)、物語の初めである。

越後の春日山城にいるのは上杉景勝、24歳。

上杉謙信は生涯独身を貫き通し、子供がおらず、

2歳違いの姉、仙桃院の息子、景勝を養子にするが、

景勝の姉の婿の景虎(北条氏康の七男)も謙信に気に入られ

養子に迎えられている。

この年に謙信が亡くなり、跡目相続のために

景勝と景虎との争いが始まる(御館の乱)。

謙信の本心としては、景虎を跡目に考えていたらしいのだが、

実際は、実母の仙桃院のサポートが大きくかかわりを持ち、

景勝が景虎の陣営を破り二代目となる。

謙信公倒れるの情報は直ぐに安土の織田信長の元に届き、
あっと言う間に各地へ知らされる。

謙信の死の10日後には、早くもこの情報が備前岡山城の城主、

宇喜多直家の元にも届いている。

50歳になる初老の直家のそばにいるのは、数えで6歳になる

一人息子の八郎、そして見守る女性は母のお福、30歳。

八郎は羽柴秀吉の元に預けられ、やがて宇喜多秀家を名乗る。

秀吉の元にやはり預けられていた前田家の豪姫との縁組も整い、

前田家と姻戚関係になる。

秀家の支えとなったのは、母親のお福である。

直家の死後、お福は秀吉に気に入られ側室になったと言われる。

同じ年、毛利輝元は播磨西端の上月城を目の前にした陣屋に。

7年前、19歳の時に、毛利元就は家督を嫡孫の輝元に譲った。

元就には3人の息子がいたが、長男の隆元は若くして亡くなり、

隆元の息子、輝元が跡を継いだ。

元就はその際、大事なことは必ず二人の叔父(隆元の弟)、

吉川元春と小早川隆景に相談せよと言い残した。

輝元にとっては、両川と呼ばれる二人の叔父が

どちらかと言えば足枷となってしまう。

物語は進展し、天正10年(1582)には、本能寺の変で信長が

光秀に討たれ、中国返しの秀吉により光秀は討たれ

(山崎の合戦)、清洲会議と続く。

更に翌天正11年(1583)には、賤ケ岳の戦いなどで、柴田勝家が

秀吉に討たれる。

天正18年(1590)には小田原征伐(小田原城開城)により

秀吉の天下統一が成る。

世に名高い小田原評定を著者は

現代風には「情報収集と情勢分析」だろうと書かれている。

結論の出ない会議だったが、なるほどと思う。

豊臣姓を名乗る秀吉が亡くなったのは慶長3年(1598)、

そして2年後の慶長5年(1600)、関ケ原の戦いとなる。

太閤秀吉の晩年には天下の大老となった2代目の3人だが、

天下分け目の関ヶ原では、いずれも負け組に属し、

家庭を失い、敗者として追われる。

家を起こし領土を広げた偉大な初代の無理や因縁が、

二代目にとっては選択の余地を狭め、破滅へと追いやったのではないだろうか。

上杉景勝は元和9年(1623)米沢にて亡くなる、享年69歳。

毛利輝元は宝永2年(1625)萩にて亡くなる、享年73歳。

宇喜多秀家は流人として八丈島に配流され、

八丈島にて亡くなる、享年84歳、

すでに徳川4代将軍家綱の治世だった。

三人とも、当時としては長生きしている。



by toshi-watanabe | 2017-11-10 09:02 | 読書ノート | Comments(0)

去る10月31日、曇り空の上野公園を抜けて、東京国立博物館へ。
史上最大と銘打った「運慶特別展」が9月26日から11月26日まで開催中。
すでに開始後一カ月経過、そろそろ空いているのではと予想していたのだが、
入場券を買い求め、平成館の前に行くと、何と長蛇の列。

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列の最後尾には案内の若者が立ち、掲げたプラカードには「60分待ち」。
諦めて列に並ぶ。
日差しがないので、暑くもなく寒くもなく、辛抱する。
建物の間からは、東京スカイツリーが望める。
紅葉はまだこれからである。

実際には40分程度で平成館には入れる。
エスカレーターを登って2階の展示会場へ。
見学者でごったかえしている。
とてもゆっくり見られたものではない。
各自がかってな方向に移動するので、ぶつかることもしばしば。
それでも、会場を二回りして見学する。

時代の移り変わりに沿って、展示は大きく三つのセクションに分けられている。
第1章は「運慶を生んだ系譜 -- 康慶から運慶へ」。
康慶は仏師慶派の祖と言われ、運慶の父親である。
康慶の作品と運慶初期の作品が展示されている。
奈良長岳寺の「阿弥陀如来及び両脇侍座像」(1151年、重要文化財)。
平安時代、奈良仏師により造られた仏像、奈良仏師の一派から独立して慶派が形作られる前、
運慶がちょうどこのころ生まれたとされている。
残念ながら、10月30日以降は勢至菩薩座像のみの展示。
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山の辺の道を歩かれた方は、長岳寺に立ち寄り、参拝されていることでしょう。

奈良円成寺の「大日如来坐像」(1176年、国宝)。
現存する最も早い運慶の作品とされ、溌剌とした表情と体格、髪のふくらみも写実的、
運慶の類まれな才能を感じさせる。
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数年前円成寺を訪れた際は、本堂から離れた小さなお堂(多宝塔)の奥に安置され、
外部から覗き見るだけでは、十分に鑑賞できなかったが、
今回は間近に見られ、じっくりと観賞できた。

次いで目を引いたのが、奈良興福寺の「仏頭」(運慶作、1186年、重要文化財)。
見事な造りの仏頭である。
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この時代の運慶の他の作品と比べて、作風に疑問を感じる専門家もおられる。

康慶作、奈良興福寺の四天王立像(1189年、重要文化財)
写真は多聞天立像。
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同じく康慶作、奈良興福寺の「法相六祖坐像」(1189年、国宝)。
写真は伝行賀。
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このセクションには、他に「毘沙門天立像」(1162年、東京国立博物館所蔵、
元は奈良中川寺十輪院伝来、重要文化財)、
「地蔵菩薩坐像」(康慶作、1177年、静岡瑞林寺、重要文化財)なども出展。

第2章は「運慶の彫刻 -- その独創性」。
運慶の作品がずらっと展示されている。
静岡願成就院の「毘沙門天立像」(1186年、国宝)。
「願成就院」
この伊豆の寺院には、今回出展された毘沙門天立像の他に、
阿弥陀如来坐像、不動明王立像と2童子像の国宝が安置されている。
運慶作品の宝庫である。
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引き締まった体で左に腰をひねって立ち、力がみなぎって、
武将のような顔つき、今にも動き出しそうである。

次いで神奈川浄楽寺所蔵の仏像群。
「阿弥陀如来坐像及び両脇侍像」(1189年、重要文化財)。
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「不動明王立像」(1189年、重要文化財)。
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「毘沙門天立像」(1189年、重要文化財)。
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京都六波羅蜜寺の「地蔵菩薩坐像」(12世紀、重要文化財)。
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東京真如苑真澄寺の「大日如来坐像」(12~13世紀、重要文化財)。
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今から9年前の2008年、ニューヨークでのオークションに登場、
宗教団体・真如苑が高額な価格(約14億円)で落札し、
大きな話題になった運慶作の仏像。

栃木光得寺の「大日如来坐像」(12~13世紀、重要文化財)
珍しく厨子に納められている。
台座の下を獅子の像が支えていっるのも面白い。
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愛知瀧山寺の「聖観音菩薩立像」(運慶・湛慶作、1201年頃、重要文化財)。
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この像内に頼朝の髪と歯が納められたと、「瀧山寺縁起」に記されているが、
X線写真により確認されている。
表面の彩色は後補である。

1998年に発見され、つい最近の2014年に、運慶の作と認定されたのが、
神奈川光明院の「大威徳明王坐像」(神奈川県立金沢文庫保管、1216年、重要文化財)。
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奈良興福寺の「無著菩薩立像・世親菩薩立像」(1212年頃、国宝)。
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このセクションには、他に和歌山金剛峯寺の「八大童子立像」(1197年頃、国宝)、
奈良興福寺の「四天王立像」(13世紀、国宝)なども展示されている。

第3章は「運慶風の展開 -- 運慶の息子と周辺の仏師」。
運慶には6人の息子がおり、いずれも仏師になっている。
そのうち、単独で造った作品(仏像)が残るのは、湛慶、康弁と康勝である。
奈良東大寺の「重源上人坐像」(13世紀、国宝)。
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康弁作、奈良興福寺の「龍燈鬼立像」(1215年、国宝)。

天燈鬼立像も同時に出展されている。
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「十二神将立像」(13世紀、重要文化財)。
京都浄瑠璃寺伝来であったが、明治の初めに流失、
現在は東京静嘉堂文庫が7躯、東京国立博物館が5躯を所蔵しており、
この12立像が勢ぞろいするのは、42年ぶりのこと。
写真はそのうちの3躯。
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このセクションには、他に京都清水寺の「観音菩薩立像・勢至菩薩立像」
(12~13世紀、重要文化財)、京都東福寺の「多聞天立像」(12~13世紀)、
神奈川満願寺の「観音菩薩立像・地蔵菩薩立像」(12~13世紀、重要文化財)、
京都海住山寺の「四天王立像」(13世紀、重要文化財)、
高知雪蹊寺の「毘沙門天立像・吉祥天立像・善贓師童子立像」
(湛慶作、13世紀、重要文化財)、京都高山寺の「善妙神立像」
(湛慶作、13世紀、重要文化財)、京都妙法院の「千手観音菩薩坐像の
光背三十三身像のうち、迦楼羅・夜叉・執金剛神」(湛慶作、1254年、国宝)など。

この特別展見学後、本館の14室に向かう。
「運慶の後継者たち -- 康円と善派を中心に」と題して、
重要文化財を含む14躯が展示されている。
展示期間は、8月29日から12月3日まで。

その後、本館の裏側に広がる庭園を散策する。
紅葉はこれからである。
久し振りに歩いたので、足が棒のよう、帰途に就く。




















by toshi-watanabe | 2017-11-03 11:49 | 寺院・仏像 | Comments(6)