折々の記

tnabe.exblog.jp

日々見たこと、 感じたこと、気づいたことをメモする

ブログトップ

<   2016年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

船旅に出かけます

8月18日から、地球一周の船旅に出かけます。
ピースボートのクルージングに参加、「オーシャンドリーム号」に乗船し、
当日、横浜湊大桟橋を出発、翌日神戸港により、その後台湾基隆へ向かいます。
南シナ海からインド洋、スエズ運河を通り、地中海を巡り、欧州を北上、
アイスランドまで、そして大西洋を渡り、北米、中南米からパナマ運河を通り、
最後はハワイにより、帰国の途に就きます。
横浜港には11月29日帰着の予定。

およそ100日間の船旅、初めての体験、大いに楽しんできます。

d0037233_09083993.png
d0037233_09085119.png
d0037233_09090366.png
d0037233_09091881.png
d0037233_09092833.png


by toshi-watanabe | 2016-08-16 09:11 | 旅行 | Comments(8)

明日は終戦記念日

明日は8月15日、終戦から71年。
俳人の宇多喜代子さんが、昭和20年代のことを書かれている。
「代用食」とか「国防色」という言葉が存在していた。
昭和22年、宇多さんの父上が復員され、俸給生活者として復職された。
まだまだ万端不自由な戦後生活ではあったが、
親子が一つ家に住み、母上が母流の工夫で精いっぱいの献立。

その頃から、母上は自己流で家計簿をつけ始められた。
日々の支出をメモするだけの出費簿、書き込んだのも普通のノートブック。
残された家計簿から、当時の暮らしぶりがありありと浮かんでくると、
宇多さんは書かれている。
その中身をご紹介する。

小包45円、蒲鉾24円、桃160円、薪420円、素麺48円、
糸35円、これが昭和26年8月15日の出費だそうである。
石鹸の配給制度が撤廃されたのが昭和25年12月、
早速に20円で石鹸を購入した。
新聞が朝夕刊セット制になった昭和27年、280円を支払っている。
昭和20年代、医療費がゼロに近かったのだが、
昭和29年の国民健康保険料一期分は1,840円と高額。

ボロボロになったノートに綴られた出費簿だが、
つましい俸給生活者の家族の暮らしぶりが充満した
貴重な時代の記録となった感がある。


さて私自身のことだが、
昭和20年8月15日、以前にも書いたことがあり、 西伊豆の土肥で迎えた。
小学校(当時は国民学校)3年生、夏休みだった。
聴きずらいラジオに耳をつけて聞いたが、よくわからなかった陛下のお言葉。
その後、学校に集まり校長先生から戦争が終わったという話を聞いたように記憶。
翌21年春、疎開先の土肥から焼け野原と化した東京へ。
電気だけは通じていたが、水道もガスもなしの生活。
飲料水は井戸を掘って共同で使用。
燃料は薪、炭、練炭など。

戦中の預金も国債も紙くず同然に。
昭和21年当時、500円生活と言われていた。
新円での俸給者の給与支払いは500円までとされていた。
封書30銭、はがき15銭、都電20銭、たばこピース20本入り7円、
理髪料3円、ビール6円だった。
終戦直後から猛烈なインフレが始まり、年々物価が急上昇する。
因みに、翌年の昭和22年には、
封書1円20銭、はがき50銭、理髪料10円に。

終戦記念日を前に、つらかった戦後の生活が懐かしく思い出される。
この71年で、逆にすっかり日本人は平和ボケしてしまったのかもしれない。






by toshi-watanabe | 2016-08-14 09:15 | 一般 | Comments(2)
d0037233_10210567.jpg



内田康夫さんの「日光殺人事件」を読み終える。
もちろん浅見光彦探偵シリーズの一冊です。
この作品は、1988年2月にカッパ・ノベルス(光文社)として
書き下ろし刊行され、1990年11月に光文社文庫に収録されている。
本年7月に、光文社文庫新装版として出されたものです。

徳川家康、秀忠、家光三代に仕え、重い役目を果たし、
長寿を全うしたのが天海僧正である。
「天海僧正は明智光秀だ」と言う説もあるのだが、
確とした証拠も裏付けもない。
「これを証明せよ」と難題を「旅と歴史」の編集長から
浅見光彦は強引に突きつけられる。
さらに編集長の話では、明智の末裔かもしれない一族が、
日光の辺りに住んでいるという。
競走馬の育成で有名な智秋牧場という大きな牧場があり、
「智秋」をひっくり返すと、「秋智」、アキチ→アケチ。。。。
余りにこじつけではあるが。

かくして光彦探偵は愛車ソアラを駆って日光へ向かう。
到着早々、名高い日光華厳の滝で遭遇したのが、飛び込み自殺。

明治36年5月、第一高等学校生徒、藤村操が
「巌投之感」という辞世の詩を大木の幹に書いて、
華厳の滝に身を投げた、当時18歳の若さだった。
それ以来、華厳の滝は熱海の錦ヶ浦、三原山と共に自殺の名所となった。

さて遺体の回収作業中に、別の白骨死体が発見される。
死後2年ばかり経っているとみられ、
取材旅行どころか、白骨死体が自殺か他殺かに、
光彦探偵の関心は向くことになる。

白骨死体の身元は、膨大な資産を有する智秋グループの一族の
ひとりと判明する。
2年前に行方不明となっていた智秋次郎で、
当時彼の乗用車は山形の鶴岡方面に放置されたままだった。
智秋家では、一族の中興の祖である智秋友康が病床にあり、
友康のあとを継ぐのに様々な思惑が渦巻いている。
友康の長男友忠の娘、朝子が登場する。
次郎は友康の次男で、朝子にとっては叔父にあたる。
朝子はこの小説のヒロインで、乗馬姿が絵に描いたように美しく、
ユキという名の白馬に跨って、牧場を疾駆する。

行方知れずだった次郎の白骨死体が引き上げられ、
智秋家では葬儀が営まれる。
次郎は短歌を趣味としていて、かっての短歌仲間が葬儀に参列。
葬儀からしばらくして、短歌仲間の一人が西伊豆で
死体となって発見される。
殺人事件で、日光の事件と関係あるのかどうか、
光彦探偵は西伊豆に向かう。

何と西伊豆の土肥町が登場する。
短歌仲間の山田俊治の死体が発見されたのは、
修善寺町から土肥町へ抜ける、国道136号線の
土肥峠付近の山林。
土肥町(現在は伊豆市だが、以前は田方郡土肥だった)は、
私の両親の故郷で、戦時中私自身2年ばかり疎開していた所だ。
土肥は、天正5年(1577)に金山が発見されて以来、
質、量ともに日本一の金の採掘場であった時代も。
慶長小判に土肥金山の金が使われたという。
金を採掘する過程で、掘り当てられたのが温泉で、
現在は温泉と海の幸で知られる観光地となっている。

智秋牧場に絡む殺人事件は思わぬ展開となるものの、
光彦探偵の第六感と見事な推理により糸口が見つかり、
難事件も解決へ向かう。

事件に関係なく、日光東照宮や輪王寺を
ゆっくりと巡りたいものである。
また西伊豆の土肥へも久し振りに出かけてみたい。



by toshi-watanabe | 2016-08-13 10:24 | 読書ノート | Comments(0)
d0037233_10424239.jpg
(表紙の挿画は中川学さん)



葉室麟さんの最新作「津軽双花」を読み終える。
書籍表紙の帯には、
「この戦い、女人の関ヶ原にございます」とある。
日本を東西に二分した戦い、「関ケ原の合戦」から十三年、
石田三成の娘、辰姫(たつひめ)と徳川家康の姪、満天姫(まてひめ)が
津軽家に嫁し、再びの因縁に相見えることになる。

津軽家を継いだ藩主信枚(のぶひら)の正室として迎えられたのが、
石田三成の三女、辰姫である。
三成一族はみな斬首の憂き目になったはずだが、辰姫は生き延び、
高台院(秀吉の正室、寧々、北政所)の養女となり、
津軽家に嫁いだ。
辰姫の兄の重成(三成の次男)も縁あって、津軽家に出仕、
名前もかえて杉山源吾を名乗っている。

平穏な生活が送れるはずだったのだが、
天海僧正の思惑もあり、家康の異父弟、松平康元の娘、
満天姫(まてひめ)が家康の養女となって、津軽信枚に嫁ぐことになる。
正室が二人というおかしな事態に。
満天姫はその前に、福島正則の養嗣子、正之に嫁し、
嫡男直秀を産んでいるのだが、正則に実子が生まれたため、
世の常とはいえ、正之は廃嫡の身となり、若くして命を絶つ。
満天姫は直秀を連れて実家に帰されていた。
満天姫は幼い息子の直秀を伴い、津軽家に嫁ぐことに。

津軽家に嫁ぐ前、天海は満天姫を伴い、大舘陣屋を訪れる。
このころ、辰姫は上野国大館にいた。
関ケ原の功により、大館二千石を与えられた津軽家では
ここに陣屋を置いていた。
辰姫は陣屋に居室を与えられて、日々を過ごしていた。
津軽信枚は津軽と江戸を往復する間に大館に立ち寄る。
満天姫が、江戸からはるばるやってきたのは、
輿入れの前に辰姫を追い出しておこうという天海の思惑もあった。
客人を大広間に案内する辰姫、案内される満天姫の
茶室での初対面の場面が、実に見事に生々しく描かれている。
この小説一番の読みどころ。
辰姫は一子平蔵を授かるものの、
病に倒れ、33歳の若さで命を全うする。
死の間際に、満天姫が辰姫を見舞いに訪れる。
津軽家の家督は必ず、平蔵に継がせると約束する。
満天姫には実子の直秀の他に、信枚の津軽の側室が
産んだ男子、万吉を手元に引き取り育てていた。
(満天姫の実子だという説もある。)

二人の姫を中心に繰り広げられる、
葉室流の感動を読者に与える一編である。

この本には、書名となっている「津軽双花」のほかに、
三つの短編作品が載っている。
いずれもすでに発表済みの作品。

「鳳凰記」は「決戦! 大阪城」、
「孤独なり」は「決戦! 関ケ原」、
「鷹、翔ける」は「決戦! 本能寺」に
それぞれ載っている。
「鳳凰記」は、茶々と秀頼が家康から上洛を求められる
経緯を中心に物語が語られている。
帝が聚楽第への行幸の折り、茶々をお目にとめられ、
鳳凰のごとき女人だと思われたそうだとの話が出てくる
「孤独なり」は、関ケ原で敗れた石田三成の物語。
西軍が負けるように仕掛けたのは三成だという、
興味深い筋書き。
「鷹、翔ける」は、明智光秀を支えて最も力を発揮した
家臣、斎藤内蔵助利三(としみつ)の話。






by toshi-watanabe | 2016-08-09 10:50 | 読書ノート | Comments(0)
イチロー選手がメジャーリーグ3000本安打達成との
嬉しいニュースが飛び込んできた。
対ロッキーズ戦に6番打者として先発出場し、
7回、見事三塁打を打ち、3000本目の安打となった。
心よりおめでとうと言いたい。

メジャーリーグでは、29人の選手が3000本以上の安打を記録。
トップはピート・ローズの4,256本、次いでタイ・カップの4,191本、
あとは3000本台である。
イチローは30人目の記録となる。

所で3000本安打を記録しいるのがプエルトリコ出身のロベルト・クレメンテ。
18年間、ピッツパーグ・パイレーツの右翼手として活躍した選手で、
ヒスパニック系選手の先駆け的な存在である。
選手として活躍する一方で、積極的に慈善事業に参加した。

1972年12月23日に中米ニカラグアで大地震が発生、
現地には大きな被害をもたらした。
急遽年の暮れ12月31日、クレメンテは小型機をチャーターして、
援助物資を積載し現地へ向かうものの、
飛行中航空機事故に逢い、不運にも命を落とした。
享年38歳だった。
私はプエルトリコからシカゴに移って2年目のことだった。

安打数もまだまだ伸ばせる可能性があったのだが、3000本安打で終わる。
今なおプエルトリコでは、憧れの野球選手として知られている。
プエルトリコの首府、サンファンには、
「ロベルト・クレメンテ・コロシアム」と名付けられた室内競技場がある。

パイレーツでは、クレメンテの背番号「21」は永久欠番となっている。



by toshi-watanabe | 2016-08-08 11:00 | 米国 | Comments(0)

夏の公園に咲く草花

関東平野も梅雨明け後、にわかに日差しも強くなり、猛烈な暑さ。
ゲリラの如く、突然雷が鳴り始めたり、
急に空模様が変わり、驚かさせられる。

数日前、近くの公園を散策、ミンミンゼミをはじめセミの大合唱の中、
木陰を歩いていると、真夏の草花が目に入る。

夏水仙。

d0037233_11001582.jpg
紅葉葵。
d0037233_11010209.jpg
白色の秋明菊。
d0037233_11022373.jpg
群生している秋海棠。
d0037233_11030533.jpg
池には睡蓮の花。
d0037233_11035365.jpg
駅の近くにある、小さな公園だが、季節ごとに草花が楽しめる。



by toshi-watanabe | 2016-08-05 11:05 | 草花 | Comments(2)