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数年前の春、小彼岸桜を楽しみに信州の高遠城址公園を訪れたことがある。
残念ながら天下の名桜は未だ蕾のまま、満開どころではなかった。
ただ一本だけ、大きな白いビニールシートをかぶせて、
無理矢理に桜の花を咲かせていたのが今も目に浮かぶ。
その折、南ゲート近くにある「絵島囲い屋敷」が復元されており見学する。
江戸時代、世間を騒がせた「絵島生島事件」の主謀とされた
大奥御年寄りの絵島が28年間幽閉された牢屋敷である。

藤原緋佐子さんの著書「花鳥(はなどり)」は7代将軍徳川家宣の
側室、「月光院」の生涯を描いた物語。
月光院の片腕となって大奥で絶大な力を発揮したのが絵島で、
その絵島が高遠藩囲い屋敷でひっそりと過ごしている場面から
この作品は始まる。
行脚僧眞圓(若い時の名前は塚田四郎次で、月光院の子供の時の知り合い)が
突然絵島のところに訪れ、絵島が彫った木彫りの仏像を預かる。
終盤の場面で、この仏像は月光院に手渡される。

元禄7年(1694)春のこと、幼子の「輝(てる)」は、
飼っていた花鳥(この作品では鶯を指す)を両親に見付けられ、
泣く泣く捨てに隅田川沿いにやってくる。
5代将軍徳川綱吉の発した「生類憐みの令」の咎めを恐れたためである。
輝は浅草にある真宗高田派の寺、「唯念寺」の塔頭「林昌院」の
住職、玄哲の娘で、玄哲は元加賀藩の藩士で、佐藤治郎左衛門といい、
槍の指南役だったところ、ある事情により槍指南のお役を辞し、
唯念寺の和尚を頼って寺に入り剃髪、名を玄哲と改める。
花鳥を捨てきれずに悩んでいる輝の姿を見て、
二人連れの立派な姿の武士が話しかける。
事情を知った武士は小鳥を預かり、己の邸宅の庭で育てると約束。
殿と呼ばれた武士は、当時甲府宰相綱豊、のちに第6代将軍家宣公。
仕えていた武士は、後々側用人として権勢をふるう間部詮房(まなべあきふさ)。
この運命的な出会いは、無論作者の仕組んだフィクションだろう。

天性に恵まれた輝は、四代将軍家綱公の乳母矢島局の
嫡男、矢島治太夫の養女となり、
綱豊公の桜田門御殿に出仕、やがて綱豊公のご寵愛を受けて
側室となられ、名をお喜世と改める。
綱豊公の屋敷内で、お喜世は鶯の鳴き声を聞きはっとする。
幼いころのことを思い出す。
そこへ着流し姿の綱豊が現れ、「聞こえたか」と、優しげに声をかける。
お喜世は頭を垂れたまま、「殘鶯(ざんおう)でございましょうか」と答える。
かって唯念寺の和尚から教えられた漢詩の中に、
「花に別れてぞ何ぞ供を用ゐん、酒を勧むるには残鶯あり」
とあったのを思い出す。

町民が「生類憐みの令」に苦しめられ、赤穂浪士への同情も増してきたころ、
綱吉公が病で亡くなる。
側用人、柳沢吉保も失脚し、綱豊が第六代将軍家宣公の世となる。
側室のお喜世は左京の方と呼ばれるようになる。
綱豊の正室、煕子(ひろこ)は御台所として大奥へ。
煕子の子供たちは生まれて間もなく夭折する。
他の側室の子供も幼くして夭折。
やがて家宣公が病に倒れ、左京の方の息子、
鍋松はまだ4歳ながら父の跡を継ぎ、第七代将軍家継となる。
お喜世の時代から右腕として、大奥で力を発揮していた
絵島は、家宣墓参り代参の帰り、歌舞伎役者、生島新五郎を
宴会に招いて、その結果大奥の門限に遅れたとして、罠に嵌められる。
世にいう「絵島生島事件」の首謀者として死罪となるところを、
高遠藩お預かりとなり、「囲い屋敷」に閉じ込められてしまう。
この事件についてはドラマ化され、映画やテレビで放映されている。
その家継も、わずか7歳10ヵ月で病で急死。

第八代将軍には、紀州徳川家から入府した吉宗がつく。
御台所は剃髪して天英院に、左京の方は月光院となる。
吉宗公は月光院を支援し、厚くもてなす。
吹上御殿で悠々自適の後半生を過ごす。
将軍家宣に仕え幼き将軍家継の母として生きた
月光院は宝暦2年(1752)9月19日、御年68歳で逝去、
芝増上寺に葬られる。

藤原緋佐子さんの作品を読むのは、「百年桜(人情江戸彩時記)」以来。
本書も、藤原さんらしい、素晴らしい筆致で読者を引き込んでしまう。
因みに月光院が登場する小説としては、杉本苑子さんの「元禄歳時記」や
諸田玲子さんの「四十八人目の忠臣」がすでにある。



by toshi-watanabe | 2016-01-25 09:09 | 読書ノート | Comments(2)

寒い中を郵便局へ

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まだ残雪が見える中を郵便局へ出かける。
偶々頂いた相撲協会の初場所番付表とカレンダーを
桐生在住のYTさんに送ってあげようと、
筒に入れて持参する。
YTさんは若かりし頃、相撲の選手として
県代表で国体に出られたことがあり、
今も大の大相撲ファンである。
空は晴れているものの、風は強く吹き冷たい。

どういう形で送ればよいかわからないので、窓口に出すと、
中身はなんですかと聞かれる。
カレンダーだと答えると、「ゆうメール」で送れますとのこと。
小包だと700円になるが、「ゆうメール」なら500グラム未満なので、
300円で済むという。
中身を確認したいというので、鋏を借りて、少しばかり開けて
中身を見てもらう。

郵便物も最近はユーザーの要望に対応できるよう、
いろいろ工夫されているのだと知る。

ついでに、お年玉付き年賀はがきで当たった、切手シートを5枚受け取り、
今回余分に買いすぎて余った年賀はがき15枚を
通常はがきに変えていただく。
上記の写真が、今年の切手シート。
可愛らしいお猿さんがデザインされて描かれているが、
申年は何かと騒がしい年とか、年初から株価が大暴落したり、
どんな年になるやら。




by toshi-watanabe | 2016-01-24 11:28 | 季節 | Comments(0)

寒中見舞いを出す

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上記の写真はシンビジウムのつぼみ。
我が家のベランダにある鉢植えのシンビジウム、
ほったらかしのままで、もう花は咲かないのではと思っていたが、
今年もつぼみが顔を出してくれた。
花が咲くのが楽しみである。

大寒前に寒中見舞いを20通ほど出した。
ほとんどが喪中はがきへの返信でもある。
その一方で、いただく寒中見舞いもぼつぼつ届いている。

例年通り年賀状を出しておいたのに、相手からは年賀状が来ず、
どうしたのだろうと気になっていたところ、寒中見舞いが届き、
しかも奥様からのもので、本人が昨年末に亡くなられたとの
メッセージ、こういう便りは実に悲しい。

小学校の同期生で、毎年6月開催の同期会には
必ず顔を出していた、Mさん、暮れも押し詰まった
12月26日に他界された。
新橋の烏森神社の近くで、こじんまりした飲み屋の主として、
京女の奥様とのコンビも素晴らしく、
すくなくとも一昨年までは元気に客商売をされていた。
昨年11月ご自宅へ見舞に行かれた友人の話では、
その時には元気な姿が見られたとのこと。
何とも信じられない別れである。

故人のご冥福を心より祈るばかり。
合掌


by toshi-watanabe | 2016-01-23 09:11 | 季節 | Comments(0)

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山本一力さんの著書「千両かんばん」を読み終える。
平成25年7月に新潮社から出版された作品が、
このたび新潮文庫の一冊として出されたばかりである。

江戸時代の人情物語で、主人公は飾り行灯の職人、武市。
武市は文化14年(1817)、江戸深川は高橋の裏店で生まれた。
ふすま絵を描く職人の父と、針仕事の腕に秀でた母は、
表通りで経師屋を営む夢を抱いていた。
ところが武市が生まれて四か月後、大火が町一帯を襲い、
逃げ遅れた両親は焼死する。
長屋の女房たちの手で育てられた武市は、
幼いころから絵を描き始め、6歳のころ、
偶々通りがかった飾り行灯造りの頭領、六造が武市の才能を見出し、
手元に引き取った。

厳しい修行に耐え、めきめき技量をあげる武市に、
六造は期待し、「緋色の六造」の異名をとる紅花の技を伝授すると
約束したものの、伝授寸前に急逝してしまう。
以前より武市を疎んじていた六造の女房は、
武市を追い出し、弟弟子の祐三に六造の書き残した
紅花絞りの技法を見せてしまう。

武市は裏店で居職として、飾り行灯造りを細々としているところから、
この物語は始まる。
大川につながる大横川に架かる塩見橋に多くの見物客。
眺めているのは、川沿いの料理屋「いさき」の行灯看板。
幅五間、高さ六尺、途方もなく大きな掛行灯の看板が
「いさき」の張出屋根に乗っていた。
この行灯看板を造ったのが、かっての弟弟子、祐三。
武市はこの看板を見てショックを受けるが、
やがて立ち直り、「いさき」の行灯看板を超えるものを
造ろうと意欲を燃やし始める。

新趣向の飾り行灯の創出に向けた武市の貪欲さが見事に描かれ、
人情味の厚い町人、船頭、船大工の親方、そして大店の主や大番頭などに
助けられて見事な行灯看板を完成させる。
門前仲町の乾物問屋大木屋の屋根に、
川を滑る猪牙舟(ちょきぶね、猪の牙のように、
舳が細長く尖った、屋根なしの小舟)を乗せ、
その舳先に据える行灯には加賀あかねで描いた
梅鉢の紋をあしらうという、前代未聞の趣向を凝らしている。

加賀あかねの色については、加賀前田藩上屋敷と関わりのある、
本郷の料亭「浅田屋」の女将から教示を受ける。
加賀前田藩と言えば、前田藩の大名行列をテーマにした、
山本一力さんの著書「べんけい飛脚」を思い出す。

お披露目の日、人混みに紛れて看板を見つめていた
武市に、祐三が話しかける。
「とことん見事な趣向ですぜ」
「舳に取り付けた梅鉢の色味のよさは、
 六造親方だってほめてくださるにちげえねえ」
「あにいの千両かんばんには、一本取られやした」
「次の仕事で、おれもあにいに褒めてもらえるように
 気張りやすぜ」
「年が明けるめえに、六造親方の墓参りに付き合ってくだせえ」
武市は目の前にいる祐三に、胸のうちで一度、
しっかりと礼を言い、そして、
「もちろんだ」と応えた。

武市の周りに登場するのは、いずれも頑固な一面、
根は優しく、正直で面倒見が良い人たちである。
江戸の町民の人情が見事に描かれている作品。





by toshi-watanabe | 2016-01-13 10:17 | 読書ノート | Comments(2)

この年末にいただいたクリスマスカードから
素敵なカードを紹介したい。
いじれも米国の友人からのものである。

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新年に届いた年賀状から、素敵なデザインの賀状を一部紹介したい。

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by toshi-watanabe | 2016-01-07 10:56 | 季節 | Comments(4)

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葉室麟さんの最新作「はだれ雪」を読み終える。
上記写真、表紙の装画は、酒井抱一の「四季花鳥図屏風」である。

元禄14年(1701)3月14日、江戸城内松の廊下にて、
勅使接待役であった播州赤穂の大名浅野内匠頭長矩が、
高家筆頭、三州吉良庄の領主吉良上野介義央に斬りつける
刃傷が起き、浅野内匠頭は即日、切腹となった。
切腹については側用人柳沢美濃守吉保が断を下した。
田村右京太夫の屋敷の一室に閉じ込められた浅野内匠頭と
襖越しであったが、わずかに言葉を交わしたのが、
永井勘解由、この小説の主人公である。
刃傷事件について何事かを探ろうとしたのではないかと見られ、
このことが時の将軍、徳川綱吉の知るところとなり、
勘解由は咎められ、扇野藩預かりとなる。
永井勘解由は幕府の目付役、2500石の旗本である。

扇野藩と言えば、葉室作品では、
すでに「さわらびの譜」と「散り椿」に登場する。
もちろん実在の藩ではない。

扇野藩では、流罪人の勘解由をどう遇したものか苦慮するが、
藩主が鷹狩りに出た折の休息所を使うことに。
接待役に決まったのが、中川三郎兵衛の後家、紗英(さえ)。
紗英が嫁いで間もなく、三郎兵衛は不慮の死を遂げている。
元禄14年11月、紗英が屋敷で勘解由の到着を待つ場面で
この物語は始まるのだが、直木賞受賞作品「蜩の記」を思い出す。

屋敷に落ち着いた永井勘解由は、
いつの間にか風に粉雪が舞い、まだらに残る雪の上に降り始めたのを眺め、
言葉をつぶやく。

「はだれ雪あだにもあらで消えぬめり世にふるごとやもの憂かるらん」

夫木(ふぼく)和歌抄にある和歌で、
「はだれ雪は」、はらはらと降る雪だとも、とけ残り、まだらになった雪だともいう。
江戸から遠く扇野へ流罪となった身の憂いを、
和歌に託した勘解由の心持が紗英にはわかる気がした。

藩主浅野長矩から切腹間際に大事なメッセージを残したのではないかと、
勘解由の元には、赤穂藩の重役大石内蔵助や堀部安兵衛などが
訪れるものの、勘解由は何も語らず。
こうして勘解由の荻野藩での生活は赤穂浪士四十七士の
吉良邸討ち入り後まで、一年余り続く。
同じ屋根の下で生活する、勘解由と紗英は結ばれ、
晴れて夫婦となり、やがて子宝に恵まれる。

勘解由と紗英が主人公なのだが、並列して忠臣蔵の
話しも進行する。
大石内蔵助の生きざまも見事に描かれている。
勘解由の陰の力となる、細井広沢なども登場する。
細井広沢は堀部安兵衛と剣術の同門である。

討ち入りとともに、勘解由は死を覚悟していたのだが、
妻と生まれてくる子供のために、生きて行く決心をする。
扇野藩としては預かっている流罪人をそのままにしておけば、
藩自体の存続が危ぶまれると、勘解由の捕縛に向かうのだが、
勘解由はその前に脱出を試み、無事江戸へ向かう。
生まれた女子には、「雪」と名付ける。

読み応えのある、感動を与えてくれる。
素晴らしい葉室作品である。


by toshi-watanabe | 2016-01-05 13:28 | 読書ノート | Comments(2)

寒川神社へ初詣

穏やかな日和りの三が日は、一杯やりながら駅伝のテレビ観戦。
元日は全日本実業団、そして二日と三日は関東大学の箱根駅伝を楽しむ。
ということで、ほとんど家で過ごす。
昨四日、やっと重い腰をあげて初詣に出かける。
ここ数年、明治神宮にお参りしていたのだが、
今年は、初めて寒川神社へ出かける。

寒川神社の歴史は古く、奈良時代に創建されたとある。
相模国の一之宮に位置付けられた、由緒ある神社。
一度お参りしたいと考えていたのだが、やっと実現した。

直線距離にしたら、大したことはないのに、
電車を4本乗り継いで行かねばならず、乗り換えが大変である。
朝10時に東急田園都市線の藤が丘から電車に乗る。
中央林間で小田急江ノ島線の乗り換え、
大和で相鉄線に乗り換え、さらに海老名でJR相模線に乗り換える。
この相模線は単線、駅によってはホームが一か所、
上下線が交互に停車するといった具合。
乗降する客はボタンを押さないと、ドアが開かない。

廃線寸前まで追い込まれた路線で、普段はほとんど利用客がないのだろうが、
初詣の時期は参拝客で満員状況。
それでも何とか11時15分過ぎぐらいには、目的地の宮山駅に到着。
臨時の改札が設けられ、寒川神社まで長い行列。
車も駐車場を求めて長蛇の列。

鳥居を潜り、参道を進むと神門が現れる。
門の上には晴れやかなねぶたが飾られている。
「迎春干支ねぶた」は本場青森のねぶた師が製作したものです。

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本殿(拝殿)の前には、大勢の参拝客で満たされている。
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健康と平穏無事を祈り、お参りを済ませる。
お守り札などを買い求めて、帰宅の途につく。
結構気温も上昇し、厚着をしていると電車の中も暑いくらいで、
扇子を使っているご婦人も見かける。

帰りは茅ケ崎に出て、湘南新宿ラインで藤沢へ、
小田急江ノ島線に乗り換え中央林間に出る。
すでに午後1時、「大戸屋」で昼食をとる。
ここでも人が多く、しばらく待たされる。
てきぱきと席に案内したり、明るい雰囲気で客に対応する
店の女性たちの姿は清々しい。

家に着いたのは3時近く、初詣も楽ではない。






by toshi-watanabe | 2016-01-05 09:42 | 寺院・仏像 | Comments(4)