折々の記

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カテゴリ:読書ノート( 133 )

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葉室麟さんの最新刊「山桜記」を読み終える。
「オール読物」に掲載された
七つの短編をまとめたものである。

「汐の恋文」

肥前佐嘉の大名竜造寺政家の家臣、瀬川采女の
妻である菊子が、朝鮮半島の戦地にいる夫を気遣い、
采女宛てに書状を出す。
ところが悪天候のため船が難破する。
手紙を入れた。渋紙に包まれた
黒漆塗りの小箱は博多の津に打ち上げられる。
浜で拾った猟師は地元の役人に届け、
肥前の名護屋城に在陣していた秀吉のもとへ届けられる。

この書状が起因となって、瀬川采女が名護屋に
呼び戻され、あわや切腹かと。

「氷雨降る」

キリシタンで洗礼名ジュスタという
京の公家中山親綱の娘が、慶長4年9月、
島原半島に四万石を領する有馬晴信のもとに腰入れる。

関ケ原の合戦ののち領土問題に巻き込まれ、
有馬晴信は遺書を書き終え、
行水して身を清め、処刑の場に臨む。
ジェスタは二人の娘とともに実家の中山家に戻る。

「花の陰」

細川忠隆と妻の千世の物語。
忠孝の父は細川忠興、母はガラシャ(玉子)。
千世は加賀の大名前田利家の七女、母は芳春院(まつ)。
石田三成の命に背き、人質を拒んだガラシャは自害、
一緒にいた千世は前田家に逃れる。
このことが後々まで忠孝の胸のうちに残り、
二人の間のわだかまりに。

娘たちの将来を案じた千世は、
忠孝と話し合いの末離縁し、加賀へ帰る。

「ぎんぎんじょ」

慶長5年3月、肥前の大名鍋島直茂の継母、
慶誾尼(けいぎんに)が亡くなる。
93歳の大往生。
末期を看取ったのが、直茂の正室、彦鶴。
彦鶴が亡き姑の顔をしみじみと見入っていると、
侍女が草花の蒔絵を施した
黒漆塗りの文箱を捧げてくる。
文箱の蓋をとると、一通の書状。
書状を開いて目を通した彦鶴の顔に不審な色が浮かぶ。

誾誾如(ぎんぎんじょ)也
と書かれている。

「くのないように」

目が鋭く、長い髭を生やしていかつい顔をした
身の丈6尺3寸の大男、正妻を亡くしたのちに
若い妻を迎えた男は40歳になる。
打掛姿の若妻かなは20歳とまだうら若い。
男は加藤清正である。
この二人の間に女の子が誕生。
名前を八十(やそ)姫とつける。
八と十の間の九がないということで、
「苦のない生涯がおくれるように」という願いを込めている。

のちに八十姫は徳川家康の十男、頼宜のもとに嫁すことに。
嫁入りの折、父の清正愛用の片鎌槍を持たされる。
亡き清正の遺言によるもので嫁入り道具の一つ。

徳川頼宜と八十姫の間には子宝が恵まれかったが、
側室が生んだ光貞の継母として面倒を見、養育する。
光貞の4男がのちに八代将軍となる吉宗。

「牡丹咲くころ」

伊達政宗の孫娘、鍋姫が立花忠茂のところに嫁入りする。
当時、仙台藩62万国に対し、
立花家の柳川藩は11万石と、身代の釣り合わない婚儀だった。

そして伊達騒動が起こる。

二人は隠居して浅草下屋敷で暮らす。
忠茂と貞照(鍋姫)の子で、柳川藩主となっている
立花鑑虎(あきとら)は毎年、
上屋敷の紅白牡丹が咲くと、母貞照に切り花を贈る。
その礼状が父忠茂から届く。
礼状には、「今年の牡丹はとりわけ見事だ」と褒めたうえ、
上屋敷の牡丹を下屋敷に移し替えて欲しい」と書かれている。
さらに
「--花の根の土落ち申さざる、牡丹の存ぜず候様に」と。

「天草の賦」

寛永14年冬、肥前島原と肥後天草の農民
およそ2万8千人が蜂起する。
いわゆる島原の乱である。

黒田藩主忠之は在勤中の江戸から
夜半を厭わず騎馬で急行、小倉に向かう。
黒田忠之の祖父は黒田如水(官兵衛)である。、
黒田家の重臣である黒田美作の父は
荒木村重の家臣であったが、如水を助けたことがあり、
如水は恩義を感じ、美作を養子にする。

天草四郎の命を救おうと、
万という若い女性が登場する。


短編集であるが、
それぞれの作品は読み手に感動を与える物語で、
珠玉の作品集である。
by toshi-watanabe | 2014-03-03 09:31 | 読書ノート | Comments(2)
河治和香さんの著書、「どぜう屋助七」を読み終える。
河治和香(かわじわか)さんの書かれた作品を読むのは
初めてである。
どのような経歴の方なのかもよく知らない。

東京にお住まいの方なら、
よくご存じの浅草の名店「駒形どぜう」の話である。
読み始めると、止まらなくなり、
ほとんど一気に読んでしまう。

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書籍の帯に、初代林家三平夫人の
海老名香葉子さんが書かれており、

「この本を読んでご覧なさいまし。
 江戸の下町の息吹がジンジン伝わり、
 お店ののれんをくぐりたくなります。
 二百年前からの匂いがし、言葉が聞こえてきますよ。」

と絶賛されている。

安永5年(1776)、武蔵国北葛飾郡松伏領広島村
(現在の埼玉県吉川市広島)に生まれた助七は、
寛政の頃、江戸へ出てきて丁稚奉公を務め、
享和元年(1801)、浅草の駒形に
ドジョウ屋を開業した。
越後屋助七と名乗る。
生まれ故郷は、鰻や鯰など川魚の捕れる土地で、
故郷の味、ドジョウ一膳飯屋をと考えた。
ドジョウは旧仮名遣いでは「どぢやう」と書く。
当初は「どぢやう」と書いた暖簾を出していたが、
店を出して、わずか5年後に繁盛していた店が
火事で類焼してしまった。
四文字は「死文字」に通じ、偶数は忌み嫌われたことから、
縁起のいいとされる奇数の「どぜう」を思いついた
助七はその頃名高かった看板書きの
撞木屋仙吉に看板を描いてもらい、
五巾暖簾(いつはばのれん)の真ん中に、
太々と「どぜう」と染め抜いて掲げたところ、
これが評判になった。

物語は幕末のころ、越後屋の当主は3代目助七の時代。
寛永7年(1854)4月、
江戸近郊は荏原郡の小山の出である
16歳になる伊代という小娘が、
浅蜊河岸(現在の新富町)の金七から紹介されて、
「どぜう」の店先にやって来るところから始まる。

度重なる江戸の大火に見舞われ、
幕末の動乱に巻き込まれ、
そのたびに、しぶとく店を開き続け、
明治維新を迎える。
浅草寺参りの参拝客、吉原通いの客などで
地理的にも恵まれた。

明治4年5月、高熱がもとで3代目助七が急死という
場面で物語は終わっている。
幕末から維新にかけて、江戸の町民がいかにたくましく
生き抜いたか、ひしひしと伝わってくる。
主人公の助七と、彼を取り巻く人物の生活が
目に浮かぶように描かれている。

著者が「あとがき」に書かれているが、
「駒形どぜう」は、今でも浅草駒形にある。
実際私もドジョウを食べに行ったことがある。
身が柔らかく、美味しいドジョウである。
いまだに、店先には、「どぜう」という暖簾を掲げているだけ。
撞木屋仙吉の文字がそのまま使われている。

この作品を書くにあたり、参考にした基本的資料は、
明治40年、創業百周年を迎えた時、 k
時の当主4代目助七(渡邉七三郎氏、小説にも登場する)
によって書かれた「渡邉家沿革誌」と、
その後の百年については、5代目当主、
渡邉繁三氏の「駒形どぜう噺」に拠るが、
歴史の中で齟齬を生じる場合には、
現在の6代目当主、渡邉孝之氏の記憶を優先。
著者はこの書を出すにあたり、6代目当主と一緒に、
初代の出身地を訪れ、墓を探し出している。

因みに、伊代は乞われて金七の嫁になリ、
二人で鰻屋を始める。
この鰻屋が、現在ウナギの名店「竹葉亭」である。
現在の「竹葉亭」の女将は「駒形どぜう」6代目の
妹、まことに不思議な因縁。

お奨めの一冊である。
by toshi-watanabe | 2014-02-22 15:12 | 読書ノート | Comments(2)
実は、この文章は別のSNS(ミクシィ)に昨日書き込んだものです。
ご了承願います。

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ご存知、素人名探偵、浅見光彦シリーズである。
この作品は平成2年(1990)10月に既に出版されている。
今回文春文庫として再新刊されたのを機に読んでみる。
書名にある「平城山」は「ならやま」と読み、歌にもなっている。
大和の国と山代の国の境に位置する山というより低い丘で、
JR大和路線(関西本線の一部)に沿って通る
国道24号線(奈良街道)の峠付近を言う。

国宝の九体阿弥陀如来で名高い浄瑠璃寺から岩船寺に至る
地域は石仏群が多く、ハイキングコースとなっており、
当尾(とうの)の里と呼ばれている。
磨崖仏も見られ、最も大きいのが
大門仏谷阿弥陀磨崖仏である。
著書ではホトケ谷と書かれ、
ハイカーの若者達がホトケ谷の谷底に
若い女性の遺体を発見。
これが殺人事件の発端となる。

浅見探偵シリーズには必ずと言っていいほど、
若い綺麗な女性が登場する。
この著書では、寺と仏像巡りが大好きな女性、
阿部美果が登場。
二人の出会いは、京都大覚寺(正確には旧嵯峨御所大覚寺門跡)、
お堂の広間で写経をする場面。
そして二人はホトケ谷殺人事件に巻き込まれて行く。

浅見光彦が奈良に出かけた目的は、古くから文士等に愛されてきた
「日吉館」が取り壊しになるのではとの噂があり、
その実情を調査するため。
「日吉館」は奈良国立博物館の北側に実在した。
會津八一、和辻哲郎、小林秀雄等々がこの2階建ての木造の宿を
定宿としてきた。
確かにこの作品が書かれた当時、名物女将の
田村キヨノさんはご高齢、一度は廃業を決意したものの、
なじみ客のボランティアの支援を受けて営業をしていた。
その後、平成7年(1995)遂に廃業、
その3年後の平成10年(1998)女将は88歳で他界。
建物はそのままになっていたが、
平成21年(2009)建物は取り壊された。
著書の中で、この宿が何度も登場する。

事件のカギとなるのが仏像である。
奈良市高畑にあるのが新薬師寺。
創建当時は七堂伽藍のお堂が並び立つ壮大な寺院だったが、
火災で焼失、唯一残るのが現在の本堂(国宝)のみ。
元来の本堂である金堂には、7躯体の薬師像が
本尊として祀られていたと記録に残る。
現在の本堂には国宝の薬師如来像が本尊として祀られ、
本尊を取り囲むように国宝の十二神将立像が祀られている。
本堂の横には香薬師堂があり、
5角形をした珍しい形の厨子の中におさめられているのが
薬師如来立像(香薬師)。
像高わずか78.4センチの小型の仏像である。

白鳳時代の仏像の特色を示しており、
深大寺(東京調布市)の釈迦如来、法隆寺の橘夫人念持仏
とともに白鳳の三大美作と称されている。
この香薬師像は国宝だったが、昭和に入り2度盗難に遭い、
無事戻ったものの、昭和18年(1943)盗難に遭って、
その後行方知れずのまま。

盗難に遭う前のオリジナルの香薬師像。

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今から70年前に仏像盗難にかかわりを持った人物が、
物語に登場し、厄介な殺人事件に発展。
浅見光彦が事件の背景を解明し、
事件の解決へと向かう筋書きである。

仏像の話でもあり、場面も京都、奈良と、
個人的にも興味があり、
面白く読めた。
ただ終盤が少々端折りすぎた感もある。
現実問題として、この香薬師像、いったいどこへ消えてしまったのだろう。
因みに、著書では厨子が空のまま本尊の薬師如来の
前方に置かれていると書かれているが、
幸いなことに、石膏型が保存されていたので、
レプリカを作成し、現在はそのレプリカが
厨子の中に安置されている。
両方を目にされている年配者の話では、
「あごの下の肉付きが幾らか甘くなっている感じだが、
殆ど遜色ない」とのことで、
香薬師堂で拝観できる。
by toshi-watanabe | 2013-12-31 10:25 | 読書ノート | Comments(0)