今年最後を締めくくる大相撲11月場所(九州場所)が
11月26日、幕を閉じた。
無事にとはいかない場所だった。
千秋楽の昨日、八角理事長の土俵上からお詫びのスピーチが
あったものの、まさに日本相撲協会の対応のまずさ、遅さを
さらけ出すだけで、むなしい限りだったのは残念。
横綱日馬富士も、今場所には出ずに謹慎すべきだった。

しかも今場所、3横綱1大関をはじめ9名の力士が休場した。
4横綱2大関がいるのに、結局横綱同士、大関同士の取り組みは
一度もなかった。 千秋楽に横綱と大関の一番が
あっただけとは全くファンを馬鹿にしている。
それでも相撲ファンとは有難いもの。
15日間満員御礼が続き、これで今年は、6場所90日間、満員が続いた。
これは21年ぶりのことだという。

会場入場者と会員によるアンケート調査「敢闘精神あふれた力士」が、
今場所も実施され、結果が発表された。
毎日1位から3位まで3名の力士が選ばれる。
1位を3回受けたのが、安美錦と北海富士、2回受けたのが
貴景勝、遠藤、嘉風、そして1回受けたのが阿武咲、松鳳山、豪栄道。
1位、2位、3位の合計回数では、7回の北海富士がトップ。
次いで、6回の貴景勝と遠藤、5回の阿武咲と安美錦、
4回の嘉風、3回の稀勢の里と続く。
白鵬は1回もなし。

白鵬は14勝1敗で、見事40回目という圧倒的な回数の優勝を果たした。
とはいえ、最近の相撲は、立ち合いと同時に張り手かかちあげで、
相手の動きをひるませて有利に進めるやり方が専らで、
横綱相撲というより、勝の相撲に徹しているように感じる。
11日目の対嘉風戦、行司判定に不満を示した態度は
力士としてあるまじきものだろう。
千秋楽の優勝表彰式での態度も疑問。
勝手に力士代表の弁を語り、万歳三唱とは。

さて39歳で再入幕を果たした安美錦、前半は巧みな技で白星を
重ねたものの、中盤からはスタミナ切れか負けが込み、
千秋楽に何とか勝ち越しを決めて、敢闘賞を受賞した。
インタビューでは涙が止まらないままだった。
奥様と3人のお子さんのために頑張ったと、ご本人の弁も感動的。

横綱大関陣が休場する中、若手力士が頑張った。
御嶽海は、今年の6場所すべてで勝ち越しを決めた、唯一の力士。
21歳の貴景勝が幕内筆頭という難しい番付でも、
11勝を挙げ、見事殊勲賞を受賞。
北海富士が技能賞を受賞した。
若手ではないが、隠岐の海が敢闘賞を受賞した。
その一方では、幕内筆頭の玉鷲が11勝を挙げながら、
賞の話が全くなく、ご本人はおやっと思ったらしい。

横綱審議会も開かれたが、結論は先延ばし。
日馬富士の暴行事件、早急に解決してほしい。
相撲ファンが逃げてしまう。





by toshi-watanabe | 2017-11-28 09:38 | 一般 | Comments(0)

d0037233_08544192.jpg



葉室麟さんの新作「大獄 - 西郷晴嵐賦」を読み終える。

文芸春秋発行、1,700円+税。

来年は明治維新から150年、NHKの大河ドラマは

「西郷(せご)どん」、林真理子の原作が脚本化され、

西郷隆盛を主人公に放映される。

この原作の他にも、数多くの西郷隆盛を取り上げた

著書が現在書店に並んでいる。

葉室さんの作品も、西郷隆盛の物語だが、

西郷吉之助として登場する。

時は弘化3年(1846)、薩摩藩世子の島津斉彬が江戸より帰国。

斉彬は38歳、父の藩主斉興は未だ家督を譲らず。

藩士の大久保利世の問いに応えて斉彬は答える。

「世が使うのは、仁勇の者だ」

「百才あって一誠なし、不仁であるがゆえにひとの心を得られぬ。

 それゆえ、どれだけ働こうとも、ひとの恨みを残すだけだろう。

 世の中をまことに動かすのは、仁を行う勇を持った者であろう。」

利世には、この言葉に似つかわしい若者の顔が脳裏に浮かんだ。

その若者こそ、西郷吉之助である。

薩摩藩では子弟の教育は居住地ごとの郷中(ごじゅう)で行う。

青少年の先輩が後輩を指導する体制で、

指導に当たるのが二才頭(にさいがしら)である。

丁度20歳になったばかりの吉之助は二才頭を務め、

同時に郡方書役として出仕していた。

嘉永4年(1851)に島津斉興は隠居の身となり、

斉彬がいよいよ薩摩藩主の座に就く。

吉之助の器量を見抜いた斉彬は、嘉永7年(安政元年)(1854)、

参勤交代の折りに、吉之助を伴う。

江戸の藩邸では、お庭方を拝命。

卑職だが、主君と直接、言葉を交わす事が出来る。

このため幕府でのお庭番は将軍の密命を受ける

隠密の役目を果たしていた。

水戸藩へ使いを命じられた吉之助は藤田東湖や

戸田蓬軒と面識を得る。

その後、多くの名士と知己を得る。

水戸藩の武田耕雲斎、安島帯刀、越前福井藩の橋本佐内、中根雪江、

肥後の長岡監物、長州の益田弾正、土浦の大久保要、尾張の田宮如雲等々。

安政5年(1858)、彦根藩主・井伊直弼なおすけ)が大老に就任する。

その陰には紀州の付家老・水野忠央(ただなか)の画策がある。

徳川幕府12代将軍・家慶が亡くなった後を継いだ13代将軍・家定は

家慶の四男だったが病弱な体質、先が危ぶまれ、水野忠央は血筋の最も近い

紀州藩主・慶福(よしとみ)を将軍継嗣に押していた。
後の14代将軍・家茂、その時まだ12歳。

所謂“南紀派”である。

井伊大老は家臣の長野主膳を京へ派遣して、

慶福将軍実現のための活動を開始する。

その一方で、当時の世情から見て、一橋慶喜が次期将軍に

最もふさわしいと考える、水戸斉昭を中心とする一派、

所謂“一橋派”があり、越前の松平春嶽などとともに、

島津斉彬も水戸斉昭を支持していた。

近衛家の娘として将軍家定の元に薩摩から嫁いでいた篤姫を通じて、

吉之助は藩主の意向に沿った工作をしていたのだが、

家定は篤姫と話をしようとせず、母親である本寿院、幼い頃に教育係だった

歌橋、いずれも南紀派の婦人たちに言われるまま、次期将軍には、

紀州の慶福と宣言し、一橋派の敗北となった。

この結果、「安政の大獄」が厳しく行われることに。
一橋派の主だった人たちが処罰やひどい仕打ちを受けた。

書名の「大獄」とはまさに、この「安政の大獄」。

因みに、1963年に放映されたNHK大河ドラマの第一作、

「花の生涯」は井伊大老の生涯を描いた作品だった。

折りしも斉彬は薩摩軍を率いて江戸に向かおうとしていたのだが、

病で突然亡くなり、薩摩藩主は斉彬の異母弟の息子、茂久が継ぐ。

実際には、茂久の父親、島津久光が実力者として

薩摩藩を引っ張ってゆくことに。

西郷吉之助は京で斉彬の訃報を耳にして殉死をと考えるのだが、

京において公家との間の交渉役をしていた、尊王攘夷派の

僧侶・月照らに思いとどまるように言われ、斉彬の遺志を継ぐ決意をする。

「安政の大獄」のあおりを受けて、吉之助は藩の計らいで、

菊池源吾と名前を変えて、奄美大島に潜居する。

所謂島流しとは異なり、島では普通の生活をする。

3年後藩の許しが出て吉之助は島から薩摩へ帰るところで、
この作品は終えている。

包容力のある西郷吉之助が見事に描かれた作品である。

周りの人たちに安心感を与えずにはおかない、

如何にも大人物というイメージが目に浮かぶ。

吉之助にとって子供の頃からの友達というか仲間の中でも、

特に仲のよかった3歳年下の大久保一蔵(のちの利通)が登場する。

大久保利世の息子、一蔵は吉之助を尊敬し、兄のように慕っていたのだが、

心の中では、いつかは吉之助を飛び越えようと考えていた。

吉之助が奄美大島に流されていた間、新たな薩摩藩の実力者

となった島津久光に接近し、吉之助と斉彬との間にあったような

関係を自分も持とうとし、実現に向かって活動する。

ただ、吉之助はそのあたりのことをすでに感知していた。

吉之助と斉彬との間には、同じ考えを持った信頼関係があったのに対して、

一蔵と久光の間には信頼関係が全くなく、

お互いの力をただ利用し合う、打算的な関係であると見抜いていた。
明治に入り、西郷と大久保は敵対する関係になるのだが、
すでにその前兆が出ていた。


西郷隆盛を扱った小説は数多く出ているが、

葉室麟さんの「大獄」は西郷隆盛という人物を見事に描いた
実に素晴らしい作品である。

葉室ファンとして、大いに感動を与えていただいた。











by toshi-watanabe | 2017-11-28 09:11 | 読書ノート | Comments(0)