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天野 純希著「有楽斎の戦」を読み終える

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天野純希(あまのすみき)さんの新作「有楽斎の戦」を読み終える。

(講談社、1600円+税)

この著者の作品を読むのは初めてだが、

2007年に小説すばる新人賞を受賞されてからすでに10年経つ。

書名の通り、織田有楽斎(織田長益源五郎)の物語である。

織田信秀の11男として生まれ、信長の弟にあたる。

信長とは13歳の年齢差がある。

またお市の方とは同年の天文16年生まれなのだが、母親が異なる。

この小説は6章から構成されている。

「本能寺の変 源五郎の道」(書き下し)

兄信長の茶頭を務める千宗易(利休)が入れる茶を

源五郎が静寂な三畳の茶室でいただくところから物語は始まる。

これがきっかけで源五郎は茶道に関心を抱く。

武芸が苦手で戦場で手柄を立てることもない

源五郎は信長の長男信忠に仕える。

本能寺において信長主宰の大規模な茶会が開かれることになり、

源五郎も末席に連なる予定で、38点にも及ぶ天下の名物が

披露されるのを楽しみにしていた。

病療養中という理由で宗易が茶会に参加しないのは残念。

その一方で博多の大商人鳥井宗室が茶会に招かれ、

天下三肩衝と称される大名物の一つ、

楢柴肩衝(ならしばかたつき)を持参する。

ところが大茶会の前夜半、世に名高い明智光秀の謀叛「本能寺の変」が

起きて、信長は燃え盛る中で自害する。

近くの二条御所に宿泊していた信長の長男信忠も自害して果てる。

信忠に仕えていた源五郎は無事二条御所を抜け出し、京から逃れる。

「本能寺の変 宗室の器」(『決戦!本能寺』に所収)

この章には、織田長益源五郎(有楽斎)は登場しない。

同時代のこととして取り上げているのだろう。

主人公は博多の大商人で茶人である鳥井宗室。

信長が手に入れなかった楢柴肩衝は、その後鳥井宗室の手元を離れ、

遂には太閤秀吉の手元に。

宗室の宗易との出会いからはじまり、

のちに自分を博多から呼んでいながら、

宗易自身は本能寺の大茶会参加を断った理由を宗室は推察する。

時代は変わり、宗室が秀吉と対面する場面が書かれている。

目の前には楢柴肩衝が。

「関ケ原の戦い 有楽斎の城」(『決戦!関ケ原』に所収)

「本能寺の変」の折は、兄と甥を置き去りにして一人で逃げ、

人からは陰口を叩かれ、源五郎自身も悪夢に悩まされる。

その後、剃髪して有楽斎と号す。

信長の次男信雄をたてて家康と手を結ぶ。

有楽斎の長男長孝は武勇に優れ、東軍のために働く。

家康から有楽斎は大阪にとどまって淀殿の後見人を引き受けさせられる。

要は豊臣家の動向を監視する見張り役である。

淀殿は有楽斎にとって姪に当たる。

「関ケ原の戦い 秀秋の戯」(『決戦!関ケ原2』に所収)

この章にも有楽斎は全く登場しない。

秀吉の甥にあたる、筑前名島三十万石の領主、

小早川権中納言秀秋の話である。

一万五千もの兵を率いる小早川秀秋は、関ケ原の戦いが始まっても動かず、

関ケ原南西の松尾山に陣取って高みの見物。

事前に家康からの誘いがあったが、はっきりした返事はしておらず。

戦いの情勢を見極めてから、どちらの軍に加勢するかを決断する。

潮時を見て、秀秋の軍勢は西軍に攻め込み、

一挙に東軍勝利の勢いをつけてしまう。

関ケ原の戦いが終わって2年後、領国経営はうまく運んでいたのだが、

秀秋が酒に溺れ、乱行を繰り返しているなどの不可解な噂が

領内に流れ始まる。

重用されていた幕臣の杉原重政が惨殺される。

豊臣家の動向を気に掛ける家康が蔭で動いたのだろう。

秀秋は若干21歳で自刃する。

「大坂の陣 忠直の檻」(『決戦!大坂の陣』に所収)

この章でも、有楽斎は出てこない。

主人公は松平忠直。

忠直の父、結城秀康は家康の次男、武勇に優れ

その器量は誰からも認められていたのだが、

秀康の母は身分が低く、家康には疎まれていた。

養子として他家をたらいまわしにされた挙句、34歳の若さで亡くなる。

父親秀康は祖父家康に飼殺されたと、松平忠直を恨みに思っている。

大坂の陣が終わり、そして家康が亡くなり秀忠の治世となるのだが、

豊臣恩顧の大名、家康側近の大名などが改易となる。

忠直がキリシタンを匿っていると密告があり、

家中の混乱が起って、江戸からの沙汰が届く。

忠直は隠居の身に、さらには追放されてしまう。

その途中で、亡父秀康の法要を営み、出家剃髪して一伯と号す。

「大坂の陣 有楽斎の戦」(書き下し)

大坂夏の陣の最中、有楽斎は大阪城内にいた。

淀殿・秀頼親子を何とか救おうと画策した

有楽斎だが、うまく行かず、二人は自刃する羽目に。

混乱の中、息子(次男)頼長の命により城内に入った間者要蔵の手引きにより、

有楽斎は無事、城外に逃れる。

建仁寺の正伝院再興の話が伝えられ、

有楽斎が喜ぶところで物語は終わっている。

正伝院(現在は正伝永源院)は事実、再興され、

同時に建てられた「茶室如庵」は国宝に指定されている。

この茶室はその後色々な経緯があったが、

現在は犬山市の「有楽苑」に保存されている。

フランク永井の「有楽町で逢いましょう」でも知られる有楽町は

有楽斎の縁で名づけられたという話があるが、

これは全くの俗説のようだ。

有楽斎がこの辺りに住んだ史実はない。

明治時代に有楽町の町名は付けられている。

織田有楽斎の幼い頃の記録は残っていない。







by toshi-watanabe | 2017-09-11 09:07 | 読書ノート | Comments(0)

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