火坂 雅志著「気骨稜々なり・島井宗室」を読む

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火坂雅志の著書「気骨稜々なり - 島井宗室」を読む。
急性膵炎のため58歳で亡くなられた火坂さん、
ついひと月前に三回忌を迎えたばかりである。

日経新聞夕刊に2013年から14年にかけて連載された

長編作品「天下 家康伝」が遺作となり、

これから大いに期待されていただけに早い旅立ちを惜しまれた。

本作品は、201310月にハードカバーで出版されているが、

最近、小学館文庫として出された改訂最新刊を手にする。

博多の三傑と称される、豪商で茶人の鳥井宗室の話である。

鳥井徳太夫、のちの宗室の父、茂久は博多練酒(乳酸発酵

させた香りのいい白酒)の造り酒屋を営んでいたものの、

根っからの放蕩者で、妓楼などに通い詰めるなど、

散財を繰り返し、店も傾き人手に渡り、

借金取りに追われ、いずこかへ行方をくらました。

母は苦労の末に、病で世を去った。

残された徳太夫の前には、借財の山だけが重くのしかかった。

17歳の時、徳太夫は店と家財を売り払い、ほとんど夜逃げ同然、

船に乗り込んで朝鮮に渡った。

釜山の港町で目を付けたのが茶道具。

この頃、日本では武家や豪商の間で茶の湯が大流行し、

人々は金に糸目をつけず、茶壺、茶入、水指、茶碗などの

茶道具を買い求めていた。

茶道具の目利きの腕を上げ、次第に販路を広げ、

博多に大店を持つまでになる。

堺にも出かけ、津田宗及、千宗易、今井宗久らとも知り合う。

特に、宗及の叔父にあたる津田道叱には目をかけられる。

北九州東部で勢威を誇り、九州一の富裕を誇る

大友義鎮(宗麟)の元を道叱と共に訪れ、

大井戸茶碗を持ち込む。

一目見て気に入った義鎮は、五千貫文でもそなたの言い値で

買い上げて遣わすというのだが、折角ですがお売りできませぬと、

徳太夫は言う。

二人の間で丁々発止と交わされる会話の場面は

絶秒に描かれており実に面白い。

最後には、

「金を積まれて、より高い方に品を流すとあっては、

商客の誇りが許しませぬ。 代金は無用、

大友さまに献上させていただきます」

と、小面憎いほど落ち着いた態度で、徳太夫は言った。

これですっかり大友宗麟に気に入られた徳太夫は、藩の御用商人となる。

徳太夫は唐舟を手に入れ、永寿丸と名付けて、

朝鮮や明ばかりでなく、琉球から安南その他南方まで商圏を広げる。

博多は地の利も得て一段と栄えるのだが、毛利氏、島津氏など、

領土を狙う戦国時代、五度にわたって、兵士が火をつけて、

繰り返し博多の町は焦土と化してしまう。

店を任せていた妻の美音(対馬の商人梅岩の娘)も、

店ともども焼死する。

徳太夫は悲嘆を乗り越え、そして博多の町も活気を取り戻す。

世に名高い楢柴肩衝の話も出てくる。

天下の三大名物肩衝の一つで、残る二つは初花肩衝と新田肩衝。

楢柴肩衝を手に入れた徳太夫は町を救うために、

秋月種美に無償で献上する。

後に秀吉が手に入れるところとなる。

(さらには家康の手になるが、江戸の大火により焼失)

著者が茶道具についてかなり調べられているのがよくわかる。

徳太夫49歳の時に三成の勧めで、二度目の妻を迎える。

博多の年行司(町衆の代表)の一人、神谷宗湛の養女で

名をお鶴という。

徳太夫は若い頃の宗湛(貞清)の面倒をよく見たものだが、

自分自身も年行司となり、ともに博多を代表する豪商となった。

武家にならぬかとの誘いを断り、

やがて京の大徳寺大仙院にて、津田道叱の紹介を得、

古渓宗陳の導きで、徳太夫は剃髪し出家する。

道叱の一字をもらい、宗叱に、そして宗室となる。

物語を最後に盛り上げるのが、秀吉との対面。

唐入りを目指す秀吉は、十八万人もの大軍を朝鮮国へ派遣すべく、

朝鮮の内情を知るために徳太夫を京の聚楽帝に呼び出す。

上段には秀吉、中段には家康、利家、景勝、秀家、輝元と、

豊臣家に連なる大名たちが居並ぶ。

下段の鳥井宗室は朝鮮の地理や内情を説明するが、

朝鮮経由で明国入りを目指す秀吉の意図に強く反論する。

居並ぶ武将たちは口を出さず黙ったまま、

秀吉はついに激昂、あわや刀に手をかけるという場面、

この物語も最高潮となる。

実子のいなかった宗室は養子を迎え、名を信吉という。

鳥井家十七か条の遺訓を残す。

元和元年(1615)824日、鳥井宗室は77歳の生涯を閉じた。


著者の三回忌に当たり、ご冥福を祈るばかりである。

合掌



by toshi-watanabe | 2017-03-22 09:13 | 読書ノート | Comments(0)