門井 慶喜著「シュンスケ!」を読む

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門井慶喜さんの著書「シュンスケ!」を読む。

時代小説なのに、「シュンスケ」とカタカナなのが面白い。

「シュンスケ」とは、明治維新後に新政府が発足し、

初代総理大臣となり、あわせて4回首相を務めた

伊藤博文の若き時代の名前、俊輔のことである。

昨年クルージングに出かける前に、この著書終盤辺りまで

読んでいたのだが、今回改めて最初から読み直す。

序では、伊藤博文がハルピン行きを前に明治天皇の元へ挨拶に出かけ、

数日後赤坂霊南坂の官邸で、山形有朋と言葉を交わす場面が、

この小説のプロローグとして書かれている。

幼名は利助、松下村塾で学び始めてから、俊英の俊をとって

俊輔と名乗り、明治維新後、博文となる。

周防国束荷村(つかりむら)の百姓の子として生まれる。

父は十蔵、母はこと。

萩に出て中間の永井武兵衛のところで下働きをしていた

十蔵は武兵衛に認められ、実子がいない武兵衛の養子となる。

同時にことと利助も一家そろって永井家の養子になる。

その後武兵衛が足軽伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と

改名したため、十蔵・利助親子も伊藤家の養子となる。

萩で生活を始めた利助は塾に通い始める。

塾の仲間に吉田栄太郎、のちの吉田稔麿。

やがて藩校明倫館の来原良蔵に目をかけられ、

利助の良き理解者、支援者となってくれる。

良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に通うようになる。

利助は俊輔と改名し、優秀な仲間たちと交わる。

しかし俊輔はあくまでも百姓の子、足軽の身分になったとはいえ、

武士の家柄とは差別され、表立った行動もとれずに暮らす。

本人の天性と努力により、次第に自分なりの信念を持ち

世の中のあるべき姿を描くようになる。

運良く、長州藩が派遣する英国留学の5人に加わる。

俊輔23歳の時である。

他の4人は、志道(じじ)聞多のちの井上馨、29歳、

遠藤謹助、28歳、山尾庸三、27歳、野村弥吉、21歳。

香港に立ち寄り、英国植民地としてすっかり西洋化した

建築物や暮らしに驚き、船を乗り換えて、4カ月かけて英国へ。

聞多と俊輔は半年後に急遽帰国する。

短期間とは言え、英国留学は俊輔にとっては貴重な体験で

血となり肉となる。

人格形成の一助となったのは間違いない。

因みに、遠藤、山尾、野村はさらに英国留学を続けて帰国、

明治維新政府で重要な役割を果たす。

幕末、長州藩を攘夷に一本化し、倒幕へと行動を起こし活躍した

高杉晋作(俊輔の2歳年上)やリーダーとして藩をまとめる役目の、

桂小五郎が表舞台に登場するが、

じつは陰で推進したのは俊輔で、俊輔の考えるところが

実現されて行くのだと、著者は書かれているようだ。

太政奉還と共に幕府体制が崩壊、新たな時代を迎える。

古い体制下では、表舞台に出られなかった人材が

明治維新とともに、一挙に表舞台に登場する。

その最たる人物こそ伊藤俊輔、改め博文なのだろう。

この小説の大半は、高杉晋作の陰に隠れてあまり語られることのない

伊藤俊輔の物語である。

松陰処刑後、その遺体を引き取りに俊輔は刑場に出かける。

御殿山の英国公使館焼き討ちに参加する。

師と仰ぐ来原良蔵が自刃する。

様々な事件に遭遇するが、己を失うことのない俊輔。

こんな文章を著者は書かれている。

俊輔曰く、吉田松陰の如く破滅的な言動へ向かうのでなく、

来原良蔵のように命じられてもいない自刃をするのでもなく、

自分自身の身の処し方「死ぬまで生きる」

生きてこの世に役立つ。

西洋先進国の優れたところを理解し、日本の新しい国づくりを

しっかりと抱いていた人物だったのだろう。

著書のエピローグは、明治42年(1989)10月、

ハルピン駅頭に降り立った伊藤博文が朝鮮人、安重根の発した

三発の銃弾を受けて倒れる場面で終わる。

巻末に解説を書かれているのは、萩博物館特別学芸員の

一坂太郎さん。

全編を貫く俊輔のしたたかさ、柔軟さが、大きな魅力だと書かれている。

「博文」は、高杉晋作が論語の一節、

「博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、

亦以て畔(そむ)かざるべきか」から引用して名付けたと。

そして、大河ドラマに伊藤俊輔を主人公に取り上げても

いいのではと締めくくられている。




by toshi-watanabe | 2017-02-25 10:26 | 読書ノート | Comments(0)