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葉室 麟著「墨龍賦」を読み終える

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葉室麟さんの最新作を読み終える。
著者にとって
50作目の記念作品となる。

武人の魂を持ち続けた絵師、海北友松(かいほくゆうしょう)を

主人公に描いた小説「墨龍賦(ぼくりゅうふ)」である。

海北友松は安土桃山時代から江戸時代初期まで絵師として、

名声を博したが、同時代には狩野永徳や長谷川等伯がいる。

等伯は6歳年下、永徳は10歳年下、

3人の絵師は後世に残る多くの最高傑作を残している。

著者は、「デビュー前から、海北友松という男を書きたかった。

もう一つの修羅を生きた男である。

自分らしさはどこにあるかを模索し続け、

晩年に答えを見出した。

そんな友松に、わが身を重ねていたのだ。」

と述べられている。

小説は、京都で細々と絵屋を営んで暮らしていた

絵師の小谷忠左衛門を春日局が江戸に呼び寄せ、

屋敷を与え、将軍家の絵師として働くように伝える

所から始まる。

春日局は忠左衛門に、そなたは海北友松の息子かと訊ねる。

彼が、さようですと答えると、春日局は、友松殿には

昔、たいそう世話になった、この度のことはその恩返しだと。

父親のことを全く知らぬ忠左衛門に、

春日局は友松のことを教えてあげようと語り始める。

忠左衛門はこの後、海北友雪と名乗り、御用絵師となる。

因みに海北家は明治に至るまで海北派絵師の家として続く。

友松は浅井長政の家臣、海北綱親の三男

(五男という説も)として生まれる。

父の死から10年経って、友松は13歳になると、

京都の東福寺の喝食(かつじき)となる。

寺に入ったものの、槍、薙刀の修行に励む。

時折り寺を訪れる幕府御用絵師の狩野水仙(元信)から絵を学ぶ。

狩野元信は、狩野派の祖、正信を継いだ狩野派2代目、

当時、天下一の評判を得ていた絵師であるとともに、

幕府御用絵師としての地位を確立した。

狩野永徳は元信の孫にあたり、永徳を名乗る前は源四郎。

その後、源四郎と友松は何かと接触があり、

お互いの才を認めつつも折り合いの付かない場面もある。

同じ東福寺に入門してくるのが、

恵瓊(えけい)といい友松より6歳年下、竺雲恵心の弟子となる。

抜け目のない男で大きな野望を抱いている。

後に毛利家の最高顧問のような役割を果たす安国寺恵瓊である。

もう一人寺に入ってくるのは尼子勝久。

尼子家再興を目指すが、うまく行かず、若くして生涯を閉じる。

その一方で、友松は1歳年下の斎藤内蔵助利三と知り合う。

その縁で、明智十兵衛光秀とも知己を得る。

光秀はかって斎藤道三に仕えていた。

永徳に誘われ、友松は狩野の屋敷に住んで仕事を始める。

道三が信長に与えたと言われる「美濃譲り状」は

存在しないことを、友松は突き止め、

光秀ではなく、その証拠を帰蝶(道三の娘で信長の正室)に渡す。

光秀、利三率いる一隊が「敵は本能寺にあり」と謀叛を起こす。

信長の死後、狩野の屋敷を出て、しばらくの間諸国を旅する。

その後も恵瓊とは何かと接触が続き、

のちに恵瓊が京都の建仁寺再建に当たって、

障壁画を友松に頼み、友松は依頼に応じて、

方丈の「竹林七賢図」や「山水図」

更には下間二の間に「雲龍図」を描く。

そのまま建仁寺に居つく。

友松64歳の高齢になって、妻を娶る。

名を清月といい、20代の若さである。

仲睦まじくくらし2年後に長男が生まれる。

(この長男が、春日局から目をかけてもらう忠左衛門である。

父のことを全く知らなかったというのも

66歳の時の子供であれば、それも頷ける。

この小説には出ていないが、一説には養子だという説も)

春日局の話の締めくくりには、宮本武蔵が登場する。

友松のところに突然浪人が現れ、絵を習いたいと。

熱心に絵の修行を積み、一羽の鵙が枯れ枝に止まっている絵を仕上げ、

友松のもとを去って行く。

武蔵の名作「枯木鳴鵙図」である。

大阪夏の陣へ向かうという。

時代は移り、江戸時代、利三の娘、福が徳川三代将軍家光の乳母となり、

のちに春日局となる。

大坂夏の陣が終わった、その年、海北友松は息を引き取る。

享年83歳だった。

海北友松という人物像を見事に描き切っている。

上記写真は、本書のカバーで、京都の建仁寺にある
海北友松筆「雲龍図」からのものである。




by toshi-watanabe | 2017-02-08 11:06 | 読書ノート | Comments(0)

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