幸田 真音著「この日のために(上。下巻)」を読み終える

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幸田真音の最新作「この日のために(上・下巻)」を読み終える。
激動の昭和の時代、「この日」のために闘い、
駆け抜けた二人の男たちの生涯を描いた作品。
田畑政治と池田勇人の二人である。

静岡県出身の田畑政治は、学生時代から水泳の指導に当たり、
新聞記者になってからも水泳指導者としての活動を続ける。
水泳連盟会長に就き、オリンピックへ選手を派遣することに尽力。
さらにIOCへの加盟から日本へオリンピックを招致する活動にも
力を入れる。 JOCの会長にもなる。

東京オリンピック開催の招致運動が実り、
紀元2600年に当たる昭和15年(1940)の
東京開催が決まって喜んだのも束の間、
太平洋戦争に突入して、開催を辞退する羽目となる。
戦後、まだ復興の最中にあった日本だが、
東京オリンピック開催が決まり、昭和39年(1964)
アジアで初めてのオリンピックが開催の運びとなる。

ところが、オリンピック開催に先頭を切って尽力してきた
田畑政治の姿は東京オリンピックの開会式には見えず。
その数年前にインドネシアのジャカルタで開催された
第4回アジア競技大会において、インドネシア政府が
開会日直前にイスラエルと台湾の参加を拒否し、国際的な問題に。
日本選手団はすでに現地到着済みで参加すべきかどうか苦慮したものの、
選手を参加させ、日本選手団は画期的な成果を上げたのだが、
帰国後、その責任問題が起こり、そのあおりで団長を務めていた
田畑政治はオリンピック組織委員会から引責辞任させられる。

広島県出身の池田勇人は必ずしも順調な人生のスタートではなかった。
一高から東大のエリートコースを目指していたが、
一高の受験に二度失敗し、熊本の五高に回される。
さらに東大に入れず、京都帝大に入る。
京大卒業と同時に、運よく大蔵省に入省したものの、
エリートコースから外れ、地方の税務署勤務。
直子を妻に迎え、宇都宮税務署長時代に、
不治の病と言われた難病「落葉状天疱瘡」に罹り休職となる。
休職期間の2年を過ぎても回復せず、大蔵省を退職。
看護疲れもあって妻の直子が病に倒れ亡くなる。
その後遠縁の女性、満枝が看病に当たり、
奇跡的に病が癒えて、日立製作所への就職も決まる。
大蔵省の元の上司や仲間から、大蔵省に戻るようにとの
要請があり、池田勇人に運が向いてきたのか、
大蔵省復帰が叶う。
これからは大蔵官僚としての実力を発揮、次官までのぼり詰める。

子供の頃から、役人になっても、政治家には絶対なるなと、
母親からは強く言われてきたのだが、
突如政治家への道に入ることを決意する。
地元広島から出馬し、初挑戦で見事当選、
しかも第三次吉田内閣の組閣に当たり、
吉田総理大臣は池田勇人を大蔵大臣の席に就任させる。
一年生議員の大抜擢で、周りからはいろいろと苦情が出る。
吉田茂は池田勇人と佐藤栄作を高く評価していた。
二人は吉田学校の優等生と呼ばれている。

池田蔵相は、社会党の木村禧八郎議員から、
高騰する生産者米価に対する所見を聞かれ、
所見を丁寧に述べた後、
「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、
 所得の多い人は米を食うというような、
 経済の原則に副ったほうへ持って行きたいというのが
 私の念願であります」と締めくくった。
翌朝の新聞紙上には「貧乏人は麦を食え」と
大きな見出しが掲げられ、世間では大騒ぎに、
麦大臣と語り継がれることになる。
因みに池田さんのご自宅では麦飯をかなり長い期間
食べておられたと書かれている。
「私はウソを申しません」というのも池田蔵相が
よく口にした言葉として知られる。

そして池田勇人は総理大臣(58~ 60代)の座に。
池田総理と言えば、「所得倍増計画」。
日本の戦後の高度経済成長の進展には大いに貢献したのは間違いない。
池田勇人の真骨頂が見事に描かれている。
東京オリンピック開催の決定も一つの契機となっている。

池田勇人は大蔵省に復帰したときに、満枝を妻に迎えている。
そして三女に恵まれる。
長女には、先立たれた前妻の名前、直子とつける。

昭和39年の東京オリンピック開催が決まった当時、
東京は戦後まだ復興が始まったばかり、
とてもオリンピックを開催できる環境にはなかった。
東海道新幹線、首都高速道路など、何とかオリンピック開催時に
間に合うよう完成させたのはつとに知られている。
新幹線には膨大な資金が必要だったが、救いとなったのが、
世銀からの融資。

選手村も大きな課題だった。
東京の郊外に何か所か予定したものの、いずれも小規模で、
競技会場への道路事情もよくない。
当時駐留米軍の将校や家族などが住んでいたのが「ワシントンハイツ」。
広大な敷地で、私自身も何度か訪れたことがある。
学生時代、アメリカカルチャーセンターの紹介で、
「ワシントンハイツ」に住む米軍将校のお宅にお邪魔し、
英会話の勉強相手をお願いしていた。
ちゃんとしたカリキュラムは無く、適当に世間話というか、
米国の話とか趣味の話などをしたのを記憶している。
芝生で囲まれたモダンな一戸建て住宅、広く明るいリビング、
何もかも日本とは別世界、羨ましい思いをさせられた。

米国と交渉して、この広大な敷地が使えるようになる。
当然、米軍の家族が住める施設を東京郊外に設けねばならず、
莫大な引っ越し費用を米国から要求される。
要求を受け入れざるを得ない。
敷地の半分は選手村として使用、しかも米軍の使っていた
住宅をそのまま活用できたのは幸い。
劇場や当時日本では珍しかったスーパーマーケットもそのまま利用できた。
敷地の残りの半分には、現在も残る代々木の国立競技場を建設。
NHKが日比谷から移転(現在のNHKホール)、オリンピック史上初めてとなる
国際テレビ中継の基地となった。

昭和史を知る上でも、大変面白い読み物である。



by toshi-watanabe | 2016-05-30 11:30 | 読書ノート | Comments(0)