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矢野 誠一著「昭和の東京、記憶のかげから」を読む

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矢野誠一さんの著書「昭和の東京、記憶のかげから」を読み終える。
実はこの本、3年ほど前に購入したまま、本棚に置きっぱなしだった。
落語や演劇に造詣の深い、評論家矢野さんが、
新聞や雑誌に寄稿されたエッセイを一冊にまとめて出版されたもの。

大きく五つの章に分けられている。
 1. 大下弘とセネタースの青春
 2. 記憶のかげから
 3. あの人、この人
 4. 大人の道楽
 5. 酒のみの技術

昭和16年(1941)4月から昭和22年(1947)3月まで、
小学校は国民学校となり、生徒は少国民と呼ばれた。
終戦までは軍国少年の教育を受けた。
矢野さんは昭和10年生まれで、国民学校の一期生、
そして国民学校最後の卒業生である。
この著書の書名は「昭和の東京」だが、
内容は当然、終戦後昭和20年以降の話。

当時、著者の家は東京代々木八幡にあり、
戦時中疎開せずにとどまり、運よく戦災を免れた。
初めて知ったのだが、都会はどこも一面焼け野原、
しかも食べるものも不足していたあの終戦の年に、
東西対抗のかたちでプロ野球の試合が行われたとは驚きである。
昭和20年11月23日に神宮球場(当時は米軍に接収され、ステート・サイド・パーク)、
24日に桐生市新川球場(現在は中央公園)、そして12月1日と2日には
西宮球場にて試合があった。

その翌年、昭和21年には巨人、阪神を含む
8球団によりプロ野球のリーグ戦が始まる。
矢野さんは野球好きの級友に誘われ、初めてプロ野球の試合を見物に
出かけたのが、この年で中部日本対セネタースの試合。
しゃれた名前のセネタースのファンとなったものの、
資金難にあえいでいたセネタースは1年だけで身売り。
五島慶太率いる東京急行が買い取り、東急フライヤーズとなる。
私自身、東急フライヤーズ(そのぐ東映に)はよく知っているが、
セネタースというチーム名は全く記憶がない。

セネタースから東急に、大半の選手はそのまま残り、
その中には、苅田久徳、白木儀一郎、黒尾重明、飯島滋彌、
そして大下弘などがいた。
私もよく覚えている選手たちである。

当時は「赤バットの川上」、「青バットの大下」と
野球ファンを二分していたスター打者。
私自身、どちらかと言えば大下選手が好きだったが、
矢野さんも大下弘の方が好きだったと書かれている。
まだ子供のころ選手のところへサインをもらいに行っていたのだが、
矢野さんと同じ年頃の少年が、川上選手にサインを頼むと、
「サインがほしけりゃ勝った日に来いッ」と、
すごい剣幕でその少年を怒鳴りつけた姿を見て、
矢野さんは川上嫌いになったとのこと。

著者は昭和22年(1947)麻布学園に入学。
その年にはじめて一人で劇場へ行く。
有楽座で演し物は、菊田一夫脚色・演出の
「彌次喜多道中膝栗毛 日本橋より岡崎まで」。
東京の二大喜劇団だった「エノケン劇團」と
「ロッパ一座」の初めての合同公演。
矢野さんはすっかり演藝のとりこになってしまう。
当時日比谷界隈には、有楽座のほかに、日比谷映画劇場、
アーニー・パイル劇場(その後、東京宝塚劇場に)、
そして日東紅茶の建物など。

矢野さんは俳句の同好会で名の知れた「東京やなぎ句会」の
メンバーでもある。
その関係で小沢昭一、江国滋さんなどが登場する。
著書の終盤に、久しぶりに柳澤愼一の唄声を聴いたと
書かれているのでこれまたびっくり。
ジャズ歌手でテレビのドラマや映画にも出ていた、
柳澤愼一、まだ健在なのだ。
懐かしい話がいろいろと紹介されており、
興味深く面白く読み終える。



by toshi-watanabe | 2015-11-13 08:38 | 読書ノート | Comments(0)